2022/08/14

で 8

 8 / 途絶


 時計が午前三時半を指した頃、私は部屋をそっと抜け出した。
 昼間の清潔な白色が嘘のように廊下は暗闇に沈んでいる。窓から差し込む光はなく、廊下の奥に灯っている非常灯からの光だけがぼんやりと闇に浮かんでいるだけだ。静寂だけが満ちた廊下に人の気配はない。まるで時間が止まってしまったみたいだった。

 私は足音を立てないように、一歩ずつ慎重に歩を進める。誰かに見つかったって咎められはしないと分かってはいたけれど、今は誰にも会いたくなかった。そうやって暗い廊下を突き当りまで歩くと、屋上へ続く階段が目に入る。見上げた先は真っ暗で、ただ冷気だけが流れ込んできている。その無機質な冷気に触れていると、不思議と安堵にも似た感情が私の中を満たしていくのが分かった。ここに来るまでに考えていたことも、先生に話したことも……全身に感じる鈍い痛みも、その全てを洗い流すような、それは冴え切った冬の気配だった。

 階段を上った先にある鉄の扉は、不用心にも思えるくらいあっけなく開いた。言葉の通り、先生が開けてくれたのだろう。導かれているような気がして妙な気分だ。

 先生は私が考えていることを知っていたんだろうか。知っていたんだと思う。きっとあれはそういう表情だった。先生も『彼』も、私じゃない他人のほうが私のことをよく知っている。私自身が知らない私のこと。それを彼らは当たり前みたいに理解して尊重してくれるのだ。私には彼らのことなんて……少しも分かりはしないのに。それは私がまともに人間をやったことがなかったから、だったのかな。

 私はふらつく足を叱咤しながら冷たい地面を踏みしめて屋上に出る。目に入るのは低い柵と灰色のコンクリートばかりで、人が出ることを考えてはいないような殺風景で簡素な作りだった。凍てついた空気が地面から迫り上がってくるように私の身体の奥に沁みていくのが分かる。私は重い体を引きずりながら歩を進め、柵越しに街を見下ろす。

 そこは、世界の終わりみたいな場所だった。

 眼下に広がるのは死んだように眠る灰色の街と、夜景と呼ぶにはあまりに寂しい無数の光点。小さな光の群れはただ静かに街の輪郭を照らし、遠くの街灯や建物の明かりの届かない場所はただ真っ暗な闇に満たされている。

 ……飛び降りが一番簡単だなんて嘘だ。

 頼りない明かりだけを灯して沈黙している街を柵越しに眺めながら、私はあの日の彼の言葉を頭に浮かべる。私の目に映っているものは、あの日とそう変わらないはずだ。それなのに、どうして別の世界に来てしまったような感覚になるんだろう。ここは私の世界の終わり。外界から隔絶された昏い闇の中に、もう導き手はいない。

 私はフェンスから何歩か下がって空を仰ぐ。低いところにはぼんやりと薄い白色だけを滲ませたような雲が続いていた。月の姿は見えない。暗く深い夜の空には星の明かりが音もなく瞬いている。


 ここに来てよかった。私は小さく息をつく。その息は白く染まり、やがて風に流されて暗闇へと消えていく。自分の呼吸の音だけがいやに大きく耳に届いた。

 彼が、先生が言うように……人間としてこのまま生きていけたらよかった。魂の導き手がいなくとも、彼らが私という存在に何かを見出してくれたのなら、私はそれに答えたかった。彼らが期待してくれたように生きていけたらどんなによかったか!

 でも……私がこのまま息を続けることは、どうやら許されないらしい。

 わかっていた。彼の話をするごとに……恐ろしい速度で私の役割が私を蝕んでいく。それが罰であるかのように、私の内にある本来の役割が私を終わらせようとする。あぁ、どう足掻こうと私はただの爆弾なんだ。どんなに人間らしく振る舞おうと、その役割から逃れることはできない。自分の意志なんて、持てやしなかったのだ。はじめから。

 体が痛い。それは体が内側から静かに食い潰されていくかのようで……どことも知れぬ場所が、あるいは全身が疼くように痛む。私はそれに耐え切れず、硬いコンクリートに膝をついた。耳の奥で心臓の鼓動がうるさいほどに鳴っている。

 ——あの日の彼も、こんな痛みを抱えてあの星空を見ていたんだろうか。
 あの日闇に沈む空を指差した彼は、私に何を遺したかったんだろう。

 私の手に残されたのは祝福であり呪いだ。彼が望んでいたことは分からないままだ。だけどこれは間違いなく私のひとつの結末であり、そして彼の意思なのだ。彼の意思がどうであれ……それに導かれた私が辿り着いた終わりの場所。

「……死にたくない」

 掠れた声が喉から漏れる。先ほど先生の前で言ったのとは違う、それはたしかな願いだった。私は地面に蹲ったままで自分の体を抱きしめる。体温を失ったそれはひどく醜くも思えたけれど、それでもたしかに存在する私の肉体だ。この肉体は私自身のものであり、けれどその肉と皮の下にあるのは誰かが与えた役割だけ。自らの結末を選ぶことすら許されはしないのに、どうして私なんてものが目覚めてしまったんだろう。

 私がもっとうまくできていたら、あの途方もない闇の中で彼の隣に並ぶことができたんだろうか。彼の最期を、その願いが叶うときを……見届けることができたんだろうか。私のいないその夜、彼は何を見ていたんだろう。

 誰と分かり合うこともできないままの彼は、何を思って死んでいったのだろう。
 あぁ……どうして私のいないところで死んでしまったの。
 どうして。どうして私は、最後まで何ひとつできないままなんだろう。

 ただ彼の役に立ちたかった。誰に笑われようと構わなかったのに。
 それが『爆弾』として間違っていたとしても、それでよかったのに!

 頭がくらくらする。目に映る暗い景色の輪郭が歪み、地面に蹲ったままの私はどちらを向いているのかも分からない。ねえ……どうしてあなたはここに来れなかったの。私の中にいる彼がその問いに答えることはない。ただぼやけた思考が彼の笑顔を思い出そうとしたけれど、それがまともな形を取ることはなかった。

 途切れそうな意識の中、私はどうにか顔を上げて自分の手のひらを見つめる。歪んだ視界に映る手のひらは、半ばくらいまで赤茶けた色に侵食されていた。金属が錆び付くようなその色は、絵の具が染み込んでいくようにじわじわとその面積を広げていく。そしてそれを土壌とするように、手首のあたりから鋸状の葉を持つ植物が生え始めていた。

 それは皮膚の下に根付き、内側から私の身体を蝕んでいる。腕だけではない、きっとそれは全身に及んでいる。肉を食い破りながら私という存在を冒していくように。傷口に血は滲んではいなかった。それでも全身は鈍く痛み、骨が軋むような感覚が重く圧し掛かっている。私は悲鳴を上げることもできず、ただ処刑を待つ罪人のように冷たい地面に頽れたまま浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。

 あぁ。私は、自分で生きることも死ぬことも選べない。ただきれいなままで死んでいった彼の真似事すらできないんだ。心臓がひどく痛む。胸に穴が空いてしまったように、息を吸い込んでもそれが意味を為すことはなかった。呼吸ができない。視界が暗くなっていく。体の中心に僅かに残された熱さえも、私の体を侵す植物の根が吸いつくすかのように消えていく。


 不意に——蹲った私の視界に白色が映った。ポケットから零れ落ちた白い羽根。

 私は……私は、どうすればよかった?

 私は軋む身体を無理やり動かし、もう一度空を見上げようとした。顔を上げるとそのままぐらりと体が傾ぎ、私の身体は冷え切ったコンクリートに倒れ込む。背中から恐ろしいほどの冷たさが迫り、痛みがどこか遠く脳に届く。それでもいい。

 見上げた先には、蒼白い星々が浮かんでいた。私は頭上の星々を視界に辛うじてとらえる。彼があの日指さしていた光の群れ。永遠にも思える距離の向こうで青く燃える光。それはきっとついに手が届くことはなかった私の導き手そのものだった。

 赤い星の、もっと先。

 彼の声が頭の奥に反響する。軽やかな笑い声……きっと痛みを堪えながら伸ばされていたその指先を、その先にある光の群れを、昨日のことみたいに瞼の裏に思い出す。

 私はそっと声を紡ぐ。きっと彼が遺したかったであろうその名を。
 掠れた声は、誰に届くこともなく白く色を変えて空中に消えていった。

 視界が闇に霞んでいく。巨大な影に覆われるように視界が奪われ、意識が夜の闇に引きずり込まれる。何も見えなくなる。それは途方もない恐怖だった。彼はこんなものを何度も繰り返していたんだろうか。どれほどの痛みを抱えて私の前で笑っていたんだろうか。いまでも……私は、私には……何もわからない。わからないよ。


 そうして私は思い出す。それはようやく私の中ではっきりと像を結ぶ。
 彼の羽根の感触を、はじめて握った手の冷たさを。
 肉を裂くあの感覚を、肩にかかる死にゆく彼の重みを。
 指差していた星空と、無邪気に笑うあの笑顔を。

 それがきっと、私に与えられた価値のすべてだった。


 身体が痛い。
 星はもう見えない。全てが昏く閉ざされていく。何も見えなくなる。


 何もみえない。なにもかもが。