2022/08/21

で 9

9/途絶

 彼女が部屋にいないことに気が付いたのは明け方になってからだった。窓の外は未だ薄暗く、夜明け前特有の深い群青色に染まっている。


 与えられた部屋に彼女の姿はなく、部屋の明かりも全て消されていた。冷え切ったベッドの上にはメモ用紙が一枚残されているだけで、他に用意された家具にはまともに使った形跡がない。メモ用紙には丁寧な筆跡で「ありがとうございました」とだけ書かれていた。私はしばらくその紙切れを眺めてから溜息をつく。

 やはり彼女はここにいることを選ばなかったらしい。紙切れをポケットにしまい、彼女の部屋を出る。人の気配のない廊下はどこまでもしんとしており、非常灯の緑色の光だけが遠くに頼りない薄明かりを落としている。静寂が満ちた空間に私の足音だけが反響していた。
 そうして長い廊下を渡り階段へ続く角を曲がると、冷たい風が微かに頬を撫でる感覚があった。誘われるように階段を見上げるが、そこにはただ暗い踊り場があるだけだ。しかし私には確信にも似た予感があった。きっと彼女はそこにいる。暗い階段を一段ずつゆっくりと登っていく。手すりに触れるとそれは氷のように無機質な感触を指先に伝えてくる。その感覚を振り払うように私は足を進める。


 屋上へ続く鉄の扉は閉ざされていた。冷え切ったドアノブに手をかけると、扉は軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。隙間から吹き込む冷気が私の首元を通り抜け、藍色の空が視界に入る。東の空は微かに赤みを帯び、薄煙が掛かったように淡く照らされていた。夜明けが近いのだろう。

 私は屋上に出ると後ろ手にドアを閉め、辺りを見回す。夜明け前の空気はまだ冷たく、刺すような感覚が皮膚に伝わってくる。薄闇の中で目を凝らしても人影は見当たらず、見えるのはフェンスに囲まれたコンクリートの空間だけだ。彼女を見送った時から抱いていた微かな予感と共に、私はフェンスに近づいて地上を見下ろす。透き通った青色に染まっていく空の下、街は未だ眠りについている。遥か遠くに見える海原は微睡むような夜明けの闇の映して静かに揺れていた。

 彼女がここから飛び降りることを予想しなかったわけではなかった。彼女をここに導いたのは私だ。あの時の彼女はまさに亡霊のようで、彼女がそれまでに得たであろう人間らしさのようなものが全て抜け落ちてしまったような顔をしていた。そういう表情を見せた人間が次に何をするかは……これまでに何度も見てきた通りだ。

 しかし同時に、自分の想像が外れてほしいとも願っていた。もしも彼女が自らの役割に折り合いをつけることができたなら。役割がなくとも生きることを選んでくれたなら……そうであってほしいと、願っていた。だから私はここに来たのだ。

 しかしここには誰もいない。私以外には誰も。

 私はもう一度視線を下ろし、眼下に広がる街を見渡した。街の輪郭は淡い夜明けの光に溶け、遠くで風の鳴る音が聞こえる。天頂を見上げると、取り残された星々が微かな光を灯していた。その光景は私が知っているものと何も変わらないはずなのに、どこか物悲しく映る。それはこの世の全てのものに死が訪れた後のような景色のように思えた。

 彼女は……どこへ行ったのだろう。ぼんやりと霞む思考の中でそんなことを考える。彼女を止めるべきだったのだろうか? ……それは意味のない問いなのだろうが。私が何を言おうと、彼女の結末を変えられるだけの力は私にはないだろう。彼女の中ではきっと全て終わっているのだから。


 ふと視界の端で何かが動いたような気配があった。

 私は背後に目を向ける。視線を戻した私は、ようやくそこにあるものを認識する。私はそれが何かを考える前にそれに歩み寄っていた。暗い視界の中で目を凝らすと、硬く冷たい地面の上に横たわる影の塊のようなものを視界に認める。 
 彼女と思しきその影は、沈黙していた。私は彼女に声をかけようとして……立ち止まる。彼女には、声をかける名前がない。私は黙ったままその場に膝をついた。影は身動ぎするように微かに揺れる。

「せんせい……」

 辛うじて耳に届いたのは、掠れきった囁き声。それは紛れもなく先程まで向かい合って話をしていた彼女の声だ。しかしそれは今にも消えてしまいそうな、命の終わりを告げるかのような声音で……背筋に冷たいものが伝うのを感じる。私は彼女に手を伸ばそうとしたが、その先にある彼女の体の状態に思わずその手を止めた。

 胎児のように身を丸めて地面に体を横たえている彼女の体は、そのほとんどが植物の葉に覆われていた。覆われているというよりも生えているといった方が適切だろうか。唯一肌の見えている手の甲も金属が錆びたような赤黒い色に染まり、そこに根付くように緑の葉が生えている。まるで彼女の存在を覆い隠すように肉の上で青く茂るそれは、薄明かりの下で揺れている。それは上着の下に、項垂れた髪の毛の間から僅かに見える頭部に……おそらく全身に及んでいる。

 これは……何なのだろう。これが彼女の持つ性質なんだろうか?

 私は息を飲み、為す術もなく目の前の少女に視線を向ける。もはや満足に体を動かすこともできない様子の彼女は、それでもほんのわずかにこちらに顔を向けたようだった。その顔すらも半ば植物と錆びた色に蝕まれてはいたが、暗澹だけが渦巻く瞳が私の方に向けられる。しかしその瞳が焦点を結ぶことはない。

「なにも、見えない」

 彼女が発したのはそれだけの声。それ以上は言葉にならないのか、苦しげな吐息だけが僅かに漏れるばかりだ。震える声は続ける。

「これが、わたしの……」

 植物に侵されたその手が、私に伸ばされる。
 私は手を伸ばしてその手を取ろうとする。取ろうとした。

 その手に、確かに触れた……瞬間、その感触は崩れ、私の手は空を切った。

 ——その瞬間、目の前で白色が爆ぜた。









 一瞬の光。


 殆ど反射的に手を引いていた。目の前で起きたことに思考が追いつかず、ただ呆然と目の前を見つめる。音もなく頭上から降り注ぐそれを、為す術もなく見上げる。

 それは、花だった。小さく白い花。頭上に散ったその花は、雪のように舞い落ちては後ろに座り込んだ私の上に降り積もっていく。私が触れたのを引き金に、彼女を覆っていた植物が一斉に花開いて爆ぜたのだ。灰色の屋上は再び沈黙する。全ての音を奪われたように。
 彼女はもうそこにはいなかった。そこに残るのは白い花だけ。

 まるで花弁を散らしたように、彼女は跡形もなくここから消え去った。

 私は立ち上がり、足元に散った白い花々を茫然と見遣る。先程まで彼女の身体があった場所には何も残されてはいない。私は自分の手の平を見下ろす。一瞬だけ触れたあの感触を……指先に思い出す。確かに触れたはずだった。それでもその感触は指の隙間を通り抜け、そして永遠に失われてしまった。

 不意に風が吹いて私の髪を揺らした。その冴えた感覚に我に返る。空を見上げると先ほどまで見えていた星々は暁の明かりに覆い隠され、その姿はどこにもない。夜が明けようとしている。

 そして私は、花に埋もれるようにしてそこに落ちているものを見つける。

 白い羽根……。それは朝日の差し込むその場所に、ひっそりと残されていた。彼女の、そして彼女の語った『彼』の、墓標のように。


 煙るような薄明のもと、それは白く、ただ白く。