2022/08/09

で 7.5

 7.5 / 侵蝕

「私が話せることは、これで全部です。それ以外には何もありません。私は彼を殺すことができなかった。……何も、できなかったんです」


 彼女はそこまで言うと、力無く目を伏せた。罪人のように頭を垂れる彼女の目は暗く澱み、何も映してはいない。彼女が望んだ結末は手に入らず、そうして全てを失ってここにいる。彼女の選択は誤ってはいない。少なくとも私から見ればそう思える。けれど彼女の瞳は深い後悔と絶望の色が染みついていた。

 小さな窓の外はすっかり藍色に染まっている。頼りない蛍光灯の光に照らされた彼女の顔はいっそう青白く見えた。

「私はまた役割を失ったんです。再び眠りにつくこともできずに、今もこうして生きている。こんな話をしたってもう何の意味もないのに」

 影の落ちた彼女の表情を読み取ることはできない。しかし押し殺された声は消え入りそうなほどに弱々しかった。彼と出会ってからずっと彼女の中に渦巻く問いに未だ答えも出せないまま、彼女はここに留まり続けている。彼女は彼の死を知ってから何度それを繰り返してきたのだろう。そして今もなお繰り返すしかない。

 私は黙ったまま彼女が口を開くのを待つ。顔を伏せたままの彼女は泣いてこそいなかったが、それが救いであるとは思えなかった。沈黙の隙間を生めるように小さく響く空調の音だけがこの部屋を満たしている。

 ややあって、彼女は錆びついた機械のような動きでそっと顔を上げた。暗い色を湛えた瞳が私を見据える。それは泣き方を知らない子供のような、途方に暮れた表情のように私の目には映った。

「ねえ先生。先生たちは私にどうしてほしかったの。どうして先生はここにいて、私に話をさせたの。……私が、間違えたから? 兵器のくせに人間のふりをしているから?」

 それは不信というよりも怯えに近い響きを持っていた。彼女はきっと彼が死んでからここに至るまでにも一人で考えてきたのだろう。自分が一体何なのか、何をするべきだったのか……そして、これからどんな道を辿るべきか。

 何と答えるべきか少し考え、私は首を横に振る。
 確かに彼女がここに来た理由は彼女の言う通りかもしれない。社会における異物……彼女のような存在が生じた原因を特定して理解し、扱うこと。それが私達の役割だった。しかし私がいま彼女の前に座っているのがごく個人的な理由であることに相違はない。彼女の担当を申し出たのは私自身だ。
 可能な限り穏やかな声で、彼女に言葉を返す。

「私が言ったことは嘘ではないよ。君のことを理解したかった。それだけだ」
「……それは、監視対象として?」
「いや。ひとりの人間として……君が何を考えてここに至ったのかを知りたかった」

 私の言葉を聞いた彼女は唇を引き結んで微かに眉根を寄せる。『人間として』という部分に思うところがあったのだろうが、敢えてそこには触れなかった。

 何かに耐えるような表情でテーブルの上に置いた手を強く握り込み、彼女はまた視線を下げる。陶器のように真っ白な手は指先近くまで上着で覆われ、わずかに震えているようにも見えた。

「『彼』の言葉を借りるようだけど、君は人間のように生きていいんだと思うよ。爆弾としての役割があろうとも、君は人間の姿をしていて、人間と同じように会話ができるのだから。少なくとも、あなたが最後の日にしたことは、そうあることを望んでいるようだった」

 私が手元の記録に目を落とすと、それを見計らったように彼女が顔を上げる気配がした。私が彼女の方に視線を戻すと、彼女は再び目を伏せる。伏せられた青白い顔には陰鬱な影が落ちるだけだ。

「私も……そうできたらよかった」

 でも、と消え入りそうな声が続く。その先を言うことに躊躇しているのか彼女はしばらくの間黙り込んだままだったが、やがて絞り出すように言葉を続けた。


「……私にはもう、無理なんです」

 彼女は上着の袖を引っ張ってから、自分を抱きしめるように腕を回す。細い肩は小さく揺れていた。俯いたままの彼女は、呻くように言葉を吐く。

「私は役割から逃れられない。人間として生きていくことなんて……できないんです。そんなことをしたって、意味なんて、もう……」

 彼女は顔を歪めて視線を下げ、上着に隠された自分の手を見つめたようだった。私の視線に気が付くと、誤魔化すように視線を彷徨わせる。その様子にはわずかな違和感があった。それは何かを隠そうとしているような、そんな気配のように思えた。

 それでも私はそれ以上追及はせず、何も言わずに彼女の言葉を待つ。

「私は爆弾だから、人を殺さずに生きていくことは許されないみたい。あぁ、私……、爆発できなかった個体がどうなるかなんて知らなかった。でも、私は……私たちは」

 そこにあるのは、底知れぬ絶望だった。

 彼女の顔には何も浮かんではいない。ただ昏く深い穴を覗き込んだような感覚を覚えるだけだ。繰り返される問いに対する深い憔悴と後悔すら許されないほどの喪失感が渦巻く彼女の深淵は、あまりに暗く深く彼女自身を飲み込んでいる。

 これが彼女を蝕むものの正体なのだ。彼女が『彼』に見たものも、きっとこれと同じものなのだろう。

 彼女は長く息を吐く。地を這うような低く掠れた声で、彼女は言葉を続ける。目の間にいるのはひとりの少女なのに、その姿は何十年もの時を生きた老人のようにも見えた。

「わたしが……崩れていくんです。何もかもをなかったことにするみたいに、私が私を消そうとする。私はもう、だめなんです。……とても、痛くて」

 恐怖と絶望の入り混じった声は、狭い部屋に虚しく響いて消えていく。その姿はあまりに頼りなく、手を伸ばしたら壊れてしまいそうに思えた。彼女はこちらを見なかった。ただ昏い目で自分の手の平を見つめたまま、瞬きひとつせずに言葉を続ける。

「彼がいなくなって。……私はまた眠ってしまいたかった。そのまま終わりに至れるのならそれでよかった。そのまま目覚めなくても構わなかったのに。先生たちが私を見つけさえしなければ。そうじゃなければ、私はひとりで、……」

 そこまで言ったところで彼女は言葉を切った。それからゆっくりと顔を上げる。
 底の見えない空洞のような色をした瞳が私を捉えて揺れる。

「怖いんです。先生。眠るのが、怖くなった。ある日突然長い眠りについてしまったらどうしようって。彼に会うたびに……生きていてよかったと思うようになって。それが。私の全てだった。それだけでよかった。よかったんです。彼に出会えたことが私にとってどれほどの価値があったか……先生はなにも、なにも……知らないくせに」

 それ以上の言葉はなかった。私を見る彼女の目はひどく怯えた子供のように揺れている。そしてそれはすぐに彼女の表情を覆う影の中に消えていった。

 彼女が恐れているものを私はようやく理解できた。それは人間としてごく自然なものだ。たとえ目の前にいるのが兵器であろうとも……その感情は、たしかに一人の人間として彼女が抱いたもののはずだった。だからこそ彼女はそれを恐れている。彼女にはかつてのように……彼と出会った頃のように、その役割のために自らを消費するような選択はもうできないのだろう。

 『彼』が彼女に与えた意味は、彼女を救うためのものであるはずだった。しかしそれは鎖のように彼女を重く縛り付けている。それは呪いと呼ぶべきもの。彼女には自らの手でその鎖を引きちぎることも、その重みに押し潰されることも選べない。彼女はこれからもその影に怯えながら生きていかなければならないのだろうか。『彼』の与えたかった結末は、きっとこんなものではなかったはずなのに。

 それでも……私には彼女をどうすることもできない。私に与えられた役割は理解することのみだ。彼女の抱えるものを認識して理解し、受け入れること。それ以上を為すことはできない。その事実が、今は無性に苦しかった。

 私は小さく息を吸う。それに応えるように彼女は視線を上げたけれど、逃げるようにまた自分の手に目を向ける。テーブルの上に重ねた両手がゆっくりと開かれる。亡霊のように白い手の平を見つめながら、彼女はふっと息を吐いた。

「……死にたくないな。生きてる理由なんて、もうないけど……」
 ぽつりと零された言葉は、静かな部屋の空気に沈んでいく。

 そこには何の感情の色も感じられなかった。それでもそれは何よりも純粋な彼女の気持ちである気がした。私はそれを受け止めて、胸の奥に留めておくことしかできない。

「それが聞けただけで十分だよ」
「……これを言わせたかったの?」

 彼女は歪んだ笑みを浮かべた。光の浮かばない双眸には底の知れない闇だけが揺れている。私は首を横に振る。私の役割が何であれ、目の前でこんな顔をしている人間に何もできないというのは耐え難いもがはある。それは彼女が『彼』に対して感じていたものに及びはしないだろうが、おそらく似た類の感情なのだと思う。

 しばらくの間を置いて返ってきたのは、彼女が小さく息をつく音だけだった。

「爆弾は残された。あとにはもう何もない。私にはもう、何もありません。役割を果たすことも、自分で死ぬこともできない。私はただ『私たち』に殺されゆくだけ」

 体温の感じられない彼女の声は部屋の中に虚しく反響して消えていく。それは私の中に冷たく入り込んでくるように響いた。彼女の無力感や悲歎を共有することはできないだろうし、彼女もそれを望まないだろう。それでも私はこうして気休めの言葉を投げかける。それが私の個人的な興味の辿り着く所だった。私の役割が何であれ、私個人は、彼女、あるいは彼女たちのような存在が抱える屈託が、少しでも晴れれば良いと祈っている。

「君に残された時間があとどれくらいであろうと……君はまだこうして生きて話をしている。君に何かを為す意思がまだ残っているのなら、何だって力になりたいと思う」
「……私の意思、」

 机を挟んだ向こう側で首を垂れる彼女に、私の声はどこまで届いているのだろう。ゆっくりと顔を上げた彼女と視線が交差する。その目に浮かぶ感情を読み取る前に、彼女は静かに目を伏せた。彼女に降りかかるもの全てが、その顔に深い影を落としていた。


 しばらくの沈黙があった。息苦しさを感じるほどの静寂が満ちる部屋の外には頼りない街の明かりが灯っている。私にできることはもうなかった。私は彼女の選択を受け入れるだけだ。彼女の口からその言葉を聞くのが唯一の望みだったけれど……それが叶うことがないという予感も確かにあった。

「今日はもう終わりにしようか。話を聞かせてくれてありがとう」

 私の言葉に、彼女はゆっくりと顔を上げる。
 その目は相変わらず昏い光を湛えたまま私を見つめている。

「信じてくれるかは分からないけれど、君の力になりたいのは本当だよ。君がこれからどうするかについては……また明日、話をしよう」
「……そう、ですね」

 それから彼女はゆっくりと窓のほうに目を向けた。肩にかかった髪の毛が流れる音すら聞こえるようだった。

「また、明日」

 夜を臨む彼女の横顔を見た私は、一瞬言葉を失う。その横顔には先ほどまで影を落としていたものは消え失せて、代わりにどこか諦めに似た微笑みが浮かんでいた。それはここにきてから彼女が初めて浮かべた、柔らかく……脆い表情だった。

「外……晴れてますか」

 そんな私に気づいた様子もなく、彼女の口からは独り言のような小さな問いが溜息のように零れる。同じように窓の外を見ているはずの彼女は、確認するように私に尋ねた。四角に切り取られた空は低い所に薄く雲が広がってはいるが、星明かりがぼんやりと滲んでいる。他に明かりのないところならもっとはっきりと星を見ることができるだろう。

「ああ……少し雲が出てきたようだけど、星はよく見えるよ」

 私は先ほどの彼女の表情の意味を考えながら言葉を続ける。彼女が何を求めているのか、何をしようとしているのか。それは彼女にしか分からないことだ。私にはその決断が望ましいものであることを祈って彼女に視線を返すことしかできない。

「屋上を開けておくよ。もし眠れないようなら行くといい。それほど高い所ではないから景色はあまり良くないかもしれないけれど……他に明かりはないはずだから」

 彼女は視線を上げ、わずかに目を見開いたようだった。自分の考えが悟られたことに驚いているのか、それとも私の予感まで汲み取ったのか。いずれにせよ、私は自分が口にした言葉を翻すつもりはなかった。

 私の視線に困ったような笑みで返しながら、彼女は小さく息をつく。一瞬だけ安堵に似た表情が浮かび、再び何かに耐えるように眉根を寄せた。そして深く長い溜息が私の耳に届く。

 それから、彼女はもう一度顔を上げて私を見た。それは今までで一番穏やかな表情で、しかしその瞳の奥は深い憂いに沈んだ色のままだった。

「……ありがとうございます」
「ああ。……また明日。」

 彼女は小さく頭を下げ、ぎこちない動きで立ち上がる。椅子を引く音が停滞した空気を切り裂くように私の脳の奥の方を揺らす。覚束ない足取りでドアの方に向かう彼女の歩みは、何かを引きずるように苦しげに見えた。

 私が何も言わずに見ている前で、ドアノブに手をかけた彼女がゆっくりとこちらを振り返る。その顔には力無い笑みが浮かんでいた。

 彼女は弱々しく微笑むと、静かに呟いた。


「おやすみなさい、先生」