7 / 薄明
それから一週間が経っても彼の姿を見かけることはなかった。単に私が見つけられなかったのか、それとも本当に彼が出歩いていなかったのかは分からない。それでも人間の形をした彼に出会ったのは、あの展望台が最後だった。
一人きりで過ごす夜は絶望的なまでに長かった。夕闇と共に押し迫る不安は焼き付くように胸に沈み込む。それほどまでに彼の存在は大きくなっていて……私は誰もいない世界にひとりで取り残されてしまったような気がして。不安はやがて焦りに姿を変え、やがてそれは恐怖へと変わっていく。けれどどれだけ怯えながら街を歩こうと、あの日以来彼の姿は見つからない。ただ夜が明けるまで空虚に歩き続けるだけの日が続いた。
あぁ、そのまま夜明けとともに消えてしまえたら。そんなことを何度思っただろう!
それでも私は信じたかった。いつか彼に会えるんじゃないかという希望と、もう二度と彼が姿を見せないんじゃないかという恐れが胸の奥底でせめぎ合っていた。
だけど一週間もすればそれも限界だった。ただの人間として生きていくことにすら耐えられないほどに私は孤独だった。そしてその孤独は、兵器として目覚めたはずの私には想像もつかないほどの痛みを孕んでいた。まともに起き上がることすらできない日が何日も続き、ただ部屋の片隅で膝を抱えて窓の外を眺めることしかできなかった。
形式的であれ食事もとれず、まともに眠ることもできず……それを自覚すると、自分がまるで人間ではない別のいきものになってしまったかのような気がした。そしてそれを断ち切るには外に出るよりほかにないと気が付くまでに時間はかからなかった。
『それ』を見つけたのは、彼と最後に会ってから十日目のことだった。
よく晴れた風のない夜。その日、私は数日ぶりに部屋を出た。外の世界は相変わらず私以外の音と色に溢れていて、そのどれもがひどく遠い。この世界が……目に映るすべてが造り物めいて見えた。目に映っているはずの色が認識できないような、そんな感覚。どこまでも続く無機質な灰色の景色が網膜を覆い尽くしてしまったかのようだった。
訪れたのは、彼と最後にあった展望台だった。深夜の公園には相変わらず誰もいない。墨色をした夜の中、展望台はあの日を切り取ったように静かにそこに佇んでいた。その中を覚束ない足取りで進んでいく。
その足元……展望台に続く階段の入口のあたりに、何か白い塊があるのが目に入った。
それが何かを認識する前に……私は、突き動かされるように足を動かしていた。一歩踏み出すごとに心臓が早鐘を打ち、全身の血が冷え渡るような感覚を覚える。足が縺れそうになりながらも、それでも足を止めることはできなかった。予感があったから。
それは、大量の白い羽根だった。降り積もった白い羽根。
ちょうど人間が蹲ったくらいの白い塊。
顔を上げる。辺りを見回すと小さな羽が散らばっていて、すぐそばにある何も植えられていない花壇の土にもそれは混ざっていた。
私はしゃがみ込んでそれを拾い上げる。
震えを抑えながら手に取った薄汚れた大きな風切羽は、月明かりを淡く反射して蒼白い色を私の目に焼き付けた。それが脳裏にある光景にぴったりと重なり、心臓を握り潰されるような心地になる。背中に迫る冷たい不安の影が一気に押し寄せてきて……息が詰まりそうになる。それでも私は……私は、散らばったそれを一枚ずつ拾い集めてゆく。凍てついた夜の空気に当てられたその冷たさは、指先を通して私のずっと奥の方へ積もっていく。
羽の違いなんて分かりはしない。
それはただの造り物だったのかもしれない。
……だけど。これはいつか彼が私に頭から浴びせたものと同じだ。そう思った。
心臓の鼓動の奥で彼の声が鳴っている。体がひどく壊れるような死に方をしたときのこと、飛び降りしたときのこと、次こそ飛び降りかな、なんて言って笑う、あの声。あの声が……、聞こえるような気がして。その響きに喉を締め上げられるように、呼吸が浅くなる。息がうまく吸えない。
私は立ち上がって展望台の方を見上げる。瞬間、重心が傾いだ体はそのまま後ろに倒れそうになって……なんとか踏みとどまる。
見上げた先、夜の中でいっそう黒い影を落としたそれは、私が見上げている間もただ静かに私を見下ろしているだけだった。琥珀色の電燈に照らされた展望台の頂上に人の気配はない。そこにはただ深さも知れないほどの闇が渦巻いているだけだ。
……そこには誰もいなかった。確かに、だれも。
私は、ついに崩れ落ちるように花壇の縁に座り込んだ。視界がぼやけて、吐き気がする。自分の中に巣食っていた何かが膨らんでいくようで、体の内側に手を入れられて掻き回されているようで……全身の血が凍り付いたような感覚が、体の内側から蝕むように広がっていく。熱を失った手足は制御を失って震え始める。
そして私は、理解する。それはもう予感などではなかった。
きっとこれは、彼なのだ。
分かってる。ここに彼はいない。だけど信じたかった。そこにいてほしかった。これは飛び降りをした彼の残骸で、夜明けになったらそれが人間の形を成して、またいたずらっぽい顔をして『やあ』なんて笑ってくれるんだって……そんな可能性を捨てきれなかった。そう、信じたかった。
でも、ここには誰もいない。午前三時の街は死んだように静まり返り、耳に痛いほどの静寂が辺りを満たしている。途方もない闇の中、ここだけが枯れた色の明かりで照らされている。その光の中にいるのは私だけだ。私、ただひとり。
私は座ったままで膝を抱える。この腕の中に何もないことを確かめたくはなかった。だって……今ここにあるのは。
私はゆっくりと顔を上げる。
そこにある白い塊は沈黙している。当たり前だ。
ここにあるのはただの羽根。意志も何も持たない、ただの残骸だ。
それでも私は。
私は、それに虚しく話しかける。
「……星のこと、調べた。おうし座のこと……」
呟く声はひどく掠れ、誰に届くこともなく夜の闇へと消えていく。
私はそれでも顔を上げて空を見た。冷たい光の瞬く空を見上げ、あの日彼が指差していた星座を見つける。
「赤い星。明るい星が二つあって……星団が、二つあって」
あの日彼が話さなかったこと。彼が私に何を教えようとしたのか、それを知る術はきっともうない。それでも、彼がしていたことがきっと答えなんだと思う。
私は手を伸ばす。頭上に広がるのは無慈悲なまでの星の海。吸い込まれてそのまま消えてしまいそうなほどの深い闇の色が一面に広がっている。その圧倒的な昏さに、私の身体は芯まで冷え切ってしまう。それでも目を逸らすことはできなかった。
「三つ星を辿って、赤い星があって……その先」
彼がしていたように、私は順番に言葉を並べながら指を差す。震える指先がなぞる先には、淡い光を放つ光点が集まっている。
「……その先、」
そこにある蒼白い光の群れは、ただ静かに瞬きながら私を見下ろしている。
彼はあの時、何を言いかけたんだろう。
どうしてあんなふうに笑ったんだろう。
彼はこうなることが分かっていたんだろうか。だからあんな話をしたんだろうか。
あの夜の彼の声が、何かを迷うような表情が……頭の奥にまだ残っている。焼き付いたようにはっきりと思い出せる。
「ねえ……」
その名前を呼ぶこともできないまま、私はその星々を見つめるだけだ。項垂れるように腕を下げ、肩を下ろす。視界がぐるりと回転するような感覚があって、影がかかるように視界が歪んでいくのが分かる。
それは、貫かれるような恐ろしいほどの孤独だった。
それは無為に生きてきた私が、その時初めて抱いた感情だった。体中が温度を失って意識だけが切り離されているような感覚がある。それなのに心臓のあたりだけが熱くて息苦しくて、今にも弾けてしまいそうだ。
うまく呼吸ができない。喉元まで灰色の砂に溺れたように私の喉は何の音も結ぶことはない。どうにか取り繕うように大きく息を吸おうとしたけれど、たいした意味は為さなかった。まるで体だけ時間が止まってしまったかのように身動きが取れず、指先は凍えたように動かせない。
私は昏い恐怖から逃れるように、もう一度そこに積もる白い羽根を見る。そこには変わらず同じものがあるだけだ。私はそれを見続けることができない。そうすることで何かを失う気がしてならなかった。でもそれを止めることもできない。この羽根の向こうには誰もいないのだ。私以外の誰もいない……ここにいるのは、私だけだ。
いまの私を彼が見たら、笑うだろうか。
また子供みたいに笑いながら、私のことをからかうだろうか。
いっそ笑ってくれたらよかった。何の前触れもなく私の前に現れて、ひとりで動けずにいる私を見て、笑ってくれたら。
祈るように蹲る私を嘲笑うかのように、辺りにあるのは死んだような静寂だけ。
何の音もなかった。私の荒い呼吸音と、かすかに聞こえる自分の心臓の鼓動だけが世界のすべてだった。私の周りだけが切り取られた別の空間のようだった。
私はどうすればよかった?
もし……もしも私が彼が指差していた星を知っていたら?
……そう、できていたなら。
……そう、できていたなら。
彼はまだここにいたんだろうか。こんな終わり方はしなかったのかな。
意味のない思考ばかりが頭を駆け巡る。私を蝕む冷たい影から逃れるように、ただ繰り返すだけだ。でも目の前にあるものが変わることはない。
……どれくらいの間そうしていたんだろう。
……どれくらいの間そうしていたんだろう。
空は煙るような青白い光が迫り、やがてその光は滲むように空を覆い星々の残火を消し去っていく。
鳥の囀る声と、木々の騒めく音。遠く聞こえるエンジン音。
凍り付いていた時間が溶けていく。
私は銀色の薄明が照らす空の下、ただ彼の残骸を見つめていた。
白い羽根はただそこにあるだけだ。微かな風が木々を揺らす音がして、白い塊は少しずつその輪郭を崩していく。風に舞い上げられてどこかへと消えていく。
それを追いかけることもできず見送りながら、私はようやくそれを理解する。
彼は、死んでしまった。