6 / 燈火 (3)
夜風はいつのまにか止んでいて、辺りには冷たく淡い沈黙が満ちていた。私はそっと彼の様子を視線だけで窺う。また空を見上げた彼は、何か探すように星空を見まわしているようだった。天頂を見上げたり振り返ったりすると、目的のものを見つけたのかある方向をじっと見つめる。それから視線に気が付いていたように、私のほうにちらりと目を向ける。
「不発弾は、星とか知ってるの?」
「え……、少しなら」
唐突な問いに反射的に答えながら、私は狼狽えながらも彼にならって天頂のほうを見上げた。凍てついた夜の中、雲のない空には無数の星が静かに瞬いている。私も先ほど彼がしていたように夜空を見回し、彼の見ていた方向にある星を見つけて指をさす。指先の向こうにある空は永遠にも思えるほど遠い距離にあった。
「オリオン座、と」
「うん」
「シリウスもわかる」
「明るいからね。あの辺は?」
「……ええと、……双子座?」
「そう。あはは、意外と知ってるね?」
一つ一つ指を刺す私に頷く彼は、軽やかに笑った。その声音に揶揄するような響きはなく、ただ楽しそうに笑う彼に少し安心する。私の気を紛らわせようとしてくれているのだろう。あぁ……まただ。彼の優しさに甘えることしかできなくて、私はまた目頭が熱くなるのを感じた。
「オリオン座の……赤い星があるだろ。ベテルギウスっていうんだけど」
「……うん」
「あれってもう死にかけの星らしいよ。もう一生のうちのほとんどが終わっていて、いつ爆発してもおかしくないとか、もしかしたら現地ではもう爆発して死んでしまっているとか。で、僕たちはもう死んでる星の光を見ているだけなのかもしれない、ってさ。いつかあの星も消えてしまうかもね」
私は彼の視線の先にある赤い星を眺める。遥か遠くで燃える光は確かな明るさを以て瞬いていた。その先の星がもう死んでいたとしても、それをいまの私たちが確かめることはできない。そう思うと不思議な心地がした。
「……消えないといいね。星座が変わっちゃうから」
「そう? 僕は見たいな、消えるところ。たぶんきれいだよ」
「それは、そうかも」
私が同意すると、彼は嬉しげに笑って言葉を続ける。
「ベテルギウスって太陽よりもずっと大きいんだ。でも地球との距離が遠いから、ここから見たらあんな大きさだ。太陽もさ……近くにあるから大きく明るく見えるだけで、宇宙の中では大したことない星なんだろうな」
彼は諦めているような、もう全部終わったかのような声音で言葉を続ける。穏やかな瞳はただ途方もなく遠い場所にある輝きと、きっとその向こうにある別の何かを眺めている。その表情に、心臓の底の方が脈打つ。微かな痛みに似た感覚を覚えた。その理由が何なのかも分からないままに。
「……星、好きなんだね」
「そうかな?」
「詳しいから」
「そうでもないだろ。でも冬の星座はけっこう知ってる。冬はよく見えるから見るってだけ。きれいなものを見るのって気分が良いだろ」
「そう、だね」
私が答えたあと、彼はまたしばらく口を閉ざした。
星が瞬く音が聞こえてきそうなくらいの静寂が私たちのあいだを満たしている。星の話をする彼はいつになく楽しそうで、その瞳に滲む憂いが幾分か晴れているような気がした。そうしている時の彼の表情が、そのまま続いてほしい。少しでもこんな瞬間が長く続けばいいと願うことしか、私にはできなかった。
やがて時間が止まったかのような沈黙を破り、彼はそっと空を指差して口を開いた。その声音はまた迷うような響きを伴って不安定に揺れていた。
「……オリオン座のさ」
痛いくらいに冷え切った空気を揺らす彼の声は、夜風に凍える私にも届くほどに澄んでいる。私は彼に倣って夜空を見上げた。彼の視線の先には無数の星々が広がっている。
「三つ星をこう、辿るだろ。……あのへん。あのあたりが、おうし座」
「……どこ? わからないよ」
「ええ? 赤っぽい……あのへんを繋ぐだろ? 赤い星の、もっと先……」
彼の指に導かれるように視線を動かす。オリオン座の三つ星の先にある淡い赤色の星を見つけたところで、彼の言葉が途切れた。
急な沈黙に彼のほうに視線を戻したのとほぼ同時、腕を降ろした彼もこちらを見る。彼は何度か瞬きをして、また視線を彷徨わせる。長い睫毛の影が揺れる。それからふっと息を吐いて小さく笑った。
「まあ、いいか。星の名前なんか覚えてもあんまり役には立たないよな」
「もっと先の……、何?」
私が尋ねると、彼は意外そうな目をしてこちらを見た。じいっと私を見返す彼は、やっぱり何か迷っているようにも見える。躊躇うように少し俯いた彼は、ややあってから顔を上げてもう一度微笑んだ。諦めたような、自嘲するような笑みだった。
「いや。今は周りが明るくて見えないみたいだから」
「……星座?」
「まあ、そんな感じ」
その目をふっと細めてから、彼は私から顔を背ける。
彼が何を言おうとしたのかは分からない。その答えを探すように、私は彼の指差していたあたりの空を見つめる。名前も知らない星々の集まりは、それでも冷えた美しい光を放っていた。
「……私は聞きたいけどな、役に立たないこと」
そう返してみたけれど、彼は溜息をつくように笑うだけだった。
「僕の話はいいや。それよりも、生きているあなたの話が聞きたいな」
視線を空に向けたままの彼は、また歌うように私に言葉を投げかける。
「設定のことでも昼間のことでも、なんだっていいんだ。……あぁ、僕を殺す以外で、どうやって人間として生活をしていくかとか。そういうの考えてみようか?」
「……私は、人間としてなんて」
彼の声は優しく夜の藍色の中に浮かんでいく。それはまるで夜そのもののように穏やかで、そして途方もないほどに深い響きで私の耳へと届く。それが私の中に染み込んでいくにつれて私の輪郭が崩れていくようで。
それでも彼は言葉を続ける。何もできない私に、ただ穏やかな声だけが届く。
「ねえ、不発弾。あなたの性質ってそんなに重要かな? あなたは人間のかたちをして、人間っぽく考えて話すことができる。それだけで人間みたいな顔して生きてもいいと思うんだけど」
夜風に乗って聞こえてくる彼の声はいつもの調子で、でもそれはいつもよりもひどく優しい音をしていた。初めて会った時と同じ柔らかで透明な響きが、私の鼓膜を揺らす。彼は続ける。夜の闇に飲まれそうな私に手を差し伸べるように。
「僕は人間のかたちをしているものは人間と思うしかない。きっと僕以外の人たちも。不発弾……僕はね、あなたの本質が人間でもそうじゃなくても、どうだっていいんだ。あなたは僕の数少ない友達なんだから」
それで充分だろ、と付け加えて、彼はまた困ったように笑ってみせた。
友達。頭の中で彼の言葉を繰り返す。
それは水に絵の具を落とすように胸の奥の方に広がり、二度とは戻らない。未だ彼の友達として顔を上げて隣に立つことのできない私は、ただ静かに彼の言葉を受け止めることしかできなかった。
彼は私の言葉を待たずにまた口を開く。
「……踏切で会ったとき。最初に、会ったときにさ。もしあなたがもっと化け物じみた見た目をしていて、僕のことをためらいなく巻き込んで、……そうだな、それで世界を滅ぼそうとするような『爆弾』だったとしたら。きっと僕はそんなものに会ってしまったことを後悔していたんだろうな。あなたの爆発に巻き込まれて死んで、生き返って……そしたら夜の散歩すらできなくなってたかも。怖いじゃん、自分よりおかしい存在がいるのって」
それから彼は私の目を覗き込む。その少年らしさの残る顔に無邪気な笑みが浮かぶ。
「だから、あなたがあなたでよかった」
「……私のほうが尋常じゃない見た目であるべきだとか、言われたけど」
「あはは、拗ねてたんだね、多分」
「拗ねてるとも言ってた」
「よく覚えてるね。もしかして根に持ってた? 僕はあんまり自分が言ったことって覚えてないんだよね。善良な人間じゃないからさ……」
でも、と彼は言葉を続ける。静かな声だけが耳に届く。
「僕はそんな感じなのに、みんなそれに囚われすぎているんだよね。あなたも……同居人もさ。僕はごくありふれた人間だ。人間だった、かな。あなたたちはただ、……多分、僕の近くにいすぎたんだろうな」
そう呟く彼の表情には、また諦めに似た色が浮かぶ。それから彼は少し考えるように視線を巡らせたあと、私の方を見て笑顔を浮かべた。いつもの人懐っこそうな笑みとは違う、どこか皮肉げな笑みだった。
「僕のことは事故みたいなものだった。それくらいで片付けていいはずなんだ。同居人はそれに囚われすぎだし、あなたも他人のことで気に病みすぎだ。そんなことより自分で自分のことをもっと考えてよ。……あぁ、また僕が話してるね」
彼はそう言って話を切り、腕を伸ばして大きく伸びをする。
頭上の天頂は遠く、はるかな距離の向こうにある星々の光はただ静かに街を見下ろすばかりだ。遠い光を眺めながら、私は彼の背中とベンチに挟まれたままの白い翼のことを思う。この生活に彼の居場所がないことを示すその翼は、いつまでも消えることはなく彼を苛み続けるのだろう。それでも彼はこの場所を離れることができないのだ。
彼はしばらく沈黙していたけれど、やがて話題を見つけたのかまたこちらを向く。
「爆発しなかったあなたたちってどうなるの?」
彼の言葉に、私もまた視線を上げる。
「……わからない。本来はそういうふうにできていなくて……、爆発を選ばないなんて選択肢は、私たちにはないんだと思う。それが私たちの役割で、私の役割、だったから」
「じゃああなたは特別に幸せな個体なんだろうね」
穏やかな彼の声に、私は目を伏せる。それが彼の役に立てない原因だというのに。もし私が正しく爆弾であったなら、彼を殺すことができたかもしれないのに。
「あなたはもう爆発を選ばないだろ?」
「……どうしてそう思うの?」
「最近人間っぽいから。……死ぬの怖いだろ、普通は」
「……そう、なのかな」
「もうあなたが不慮の事故で死んだりしない限り、世界が滅びることはないね」
彼を見る。人間として生きること。私がそれを目指すことに、意味はあるんだろうか。ただ私だけのために人間になろうとすることは、許されるんだろうか。私は結局何もできないままでこうして彼の隣にいる。それでも彼は笑って、私のことを人間だと、友達だと言ってくれる。それは本当に私の意志が導いたものなんだろうか。
私を見つめる彼の目は、頭上の空を映して揺らめいている。そこには彼の抱える昏い色はなく、ただ透明で穏やかな夜の色だけが浮かんでいた。私のすべてを見透かすように、彼は笑う。
「僕は不発弾の処理ができたかな? この調子で人間っぽさを手に入れたら、あなたはこの先も幸せに生きていけるかも。あはは、これはちょっとおこがましいかな?」
私は首を横に振る。向けられる笑顔が胸を抉るようだった。世界を滅ぼす偉大な爆弾は絶望的なほどに無力で、ここに立つたった一人の人間を殺すことすらできない。私に意味を与えてくれた友達に報いることすらできない。これが私の呪いなのだ。
「私は、そうするほかにないのかな」
だから、私はまた彼に尋ねる。きっとその答えはもう私の中にある。だけど聞かずにはいられなかった。そうしていないと自分を許せそうになくて。
「殺せって……爆発しろって言ってくれたら、私は……それが私の役割になるのに」
それだけが今の私に残された唯一の可能性だった。どれほど彼に否定されようと、体の奥底から湧き上がるような私の願いを無視することは、どうやらできそうにない。
彼がそうしてほしいと願ってくれさえすれば、きっと。きっと私は……自分が生きていられなかったとしても、彼の友達として、爆弾として、その役割を果たすのに。
きっとそれが私という『友達』に残された最後の手段なのに。
「殺していいよ? あなたがそうしたいならね」
彼は軽く答える。彼の瞳の奥では変わらず静かな波が揺れていた。
私が言っていることがそれを意味していないことを、きっと彼も分かっている。分かっているはずなのに、彼はただ穏やかに微笑むだけだった。
喉元を締め上げられているみたいに呼吸は浅くなり、喉からは掠れた言葉しか出てこない。彼は困ったように眉を下げるだけだった。そしてぽつりと言葉を続ける。
「あなたがどうしたいのかは……知らないけど」
彼は少しだけ視線を宙に向けてから、ゆっくりとこちらを向く。
「少なくとも、僕はあなたに死んでほしいとは思わないよ。友達が減るからね」
いつも通りの口調で言いながら、そしてふっとその表情を緩める。優しい顔だった。穏やかで、少しだけ寂しそうな顔。海から吹く風に髪を遊ばせながら、彼は続ける。
「あなたが僕を殺したいなら付き合うよ、前も言った気がするけど。でもあなたは多分それをやらないんだ。僕も無理やり殺させるのは懲りたし」
彼の透明な声が夜の底へと落ちていく。それは許容の言葉だった。彼がくれる答えはいつも同じだ。私がどんなに足掻いても、その答えを変えることはできなかった。彼に手が届いたことなんて、……きっと一度もなかったのだ。その全てが呪いとなって私を苛み、心臓を軋ませる。
彼の言葉を聞くことがこんなにも辛くなる日が来るなんて、想像したこともなかった。彼の隣に立っていたい、ただそれだけなのに。それはそんなに難しい願いだろうか。私の役割の果てにあるのは、そんなささやかな願いすら叶わない結末だけなんだろうか。
俯いた視界の端、彼はしばらく私をじっと見つめていたようだった。それから静かに息を吐く音が聞こえて、ため息の合間に声が届く。
「あなたはもう充分人間だよ。少なくとも、はじめに会ったときよりもずっと。あなたが兵器として生きていくことはきっともうできない……僕は、そう思う。わかるかな、不発弾。あなたは自分の役割を降りることを考えなきゃいけないんだ」
私を見つめる彼の双眸はやはり穏やかなままだ。そこに宿る淡い光が胸を刺す。それを前にして、私に何ができるだろう。彼を殺す以外に、私はこの苦しみから逃れる術を知らないのに。
彼は、私を見て笑うだけだった。穏やかな声で告げられたそれが、私のすべてだった。
「あきらめなよ、不発弾。あなたは生きていくしかないんだ。僕と同じように」
それは、初めて聞く声音で私の耳に届く。諦めとも失望とも違う、柔らかさと力強さを併せ持ったような、不思議な響きを帯びた声。見返した先で彼の瞳はやはり遠い夜の闇の色を映していたけれど、それはどこか熱を帯びているように見えた。
あの踏切で出会った時、彼はこの結末も見えていたんだろうか。私がこんな選択をすることも分かったうえで私と友達になったんだろうか。ただ……私を受け入れようとしてくれていたんだろうか。
「……あなたは、それで生きていけるの」
「僕? 僕は……」
彼はそう言うと、少し考え込むように首を傾げる。それから少しだけ寂しげに笑った。風が凪ぎ、遠くで港の明かりが音もなく揺れている。その静けさを破ることなく、彼は囁くように言葉を紡ぐ。
「死に続けるよ、きっとこれからも。」
そう言うと、彼はゆっくりとベンチから立ち上がった。振り返る素振りもなくまたフェンスの方に歩いていくと、そのまま手すりを掴んで身を乗り出すようにして港の方を見下ろす。そのまま飛び降りてしまうのではないかと心臓が一気に縮み上がった矢先、彼はぱっと振り返る。
淡い光に照らされた髪の毛が映画のワンシーンのようにゆっくりと煌めく。その背中に見える海は深い紺に染まっていた。淡い光点の浮かぶ空と紺碧の海を背に、彼の姿だけが白く浮かび上がる。
振り返った彼は、まるで眩しいものを見るかのように目を細めた。いつのまにマスクを外したのか……口元に浮かべた柔らかい笑みには、ほんの少しの苦さも滲んでいた。
私はその笑顔を久しぶりに目にしたような気がした。それを、美しいと思った。
「今日は飛び降りするつもりだったんだ。あなたの前で……」
だからここに来た、と付け加えながら、彼はベンチに座ったままの私に正面から向き合う。暖かな色の光を背負い、彼の輪郭は淡くぼやけて見えた。私が少しだけ視線を下げると、彼もふっと笑ったようだった。いつも通りのその表情が、なぜか泣き顔にも似ているように思えた。
「でもやめとくよ。それを持って帰らなきゃいけないしね」
私の隣に置いてある紙袋を顎で指し、彼は少しだけ皮肉めいた笑顔を浮かべる。それから、よほど私がひどい顔をしていたのか……私の方に近づいてきて、少し身を屈めて私の顔を覗き込む。すぐそばで目が合う。ここにある全ての光を映した淡い色の瞳が揺れている。
「あなたの方が死にそうだよ」
彼はおかしそうに笑った。私は唇を引き結んだまま何も言えなかった。
彼はまたフェンスの方に振り返ると夜空の低いところに目を向ける。その視線の先にあるものを確かめるように。それはさっき彼が指差していたあたりだったと思う。
「だいじょうぶ。死ぬときはちゃんと自分で死ぬよ。だから、あなたが僕のことを気に病む必要なんてないんだ」
彼の横顔の向こうに、煙るような港の明かりが音もなく瞬いているのが見える。何か言いたそうな表情を隠すように、彼はもう一度笑顔を浮かべた。子供のように無邪気な、いつも通りの笑顔だった。
「また、やってみるよ。大丈夫。平気だから」
自らに言い聞かせるような声音に耳を傾けながら、私はその笑顔から目を逸らす。深い傷が残っているであろう彼の左腕は、糸の切れた人形のようにだらりと垂れさがっていた。先ほど見た傷痕が貫くように脳裏を過ぎ、私は思わず彼の顔に視線を戻した。
視線に応えるように、彼は静かな夜そのもののような微笑みを以て私を見つめ返した。淡い光がその頬の上で揺れていた。
兵器としての私は、きっと今ここで死んでしまった。彼の言葉通り、きっとこれからはただの人間として生きていくしかないのだ。目の前にいる人にも手が届かないままで。私は静かに目を伏せる。
この人は、一体どんな気持ちで私と友達になったんだろう。
自分を殺せないと分かっていながら、どうして私を受け入れたりなんかしたんだろう。
どうして私を……人間に、したんだろう。
聞きたいことはたくさんあった。私にはまだ分からないことだらけで、けれど今はそんな疑問でさえどこか遠い。ただその笑顔から目を離すことができなかった。胸の奥底を揺さぶるような感情に息が詰まりそうになる。
それがきっと、私という兵器に……そして存在そのものに与えられた、ただひとつの意味だった。私にとって、この瞬間が確かにひとつの終末だった
それから彼はベンチまで戻ってくると、紙袋を手に取った。もう一度確かめるように中身を覗き込んでから、それを為す術もなく眺めている私に笑いかける。
「今日はもう帰るよ。……自殺は、また今度。次こそ飛び降りかな」
そう言うと彼は階段の方に足を向けて、それから立ち止まってこちらを見た。私が顔を上げると、不思議そうな顔で首を傾げる。それが私を待っているのだと気が付くのに時間がかかった。いつも私のことなんて待たずにふらりと帰っていく彼は、特に何の感情も浮かんでいない顔でこちらを見ている。私がのろのろと立ち上がるのだけを確認すると、くるりと背を向けて階下へと向かった。
二人で階段を下りるあいだ、何の会話を交わすこともなかった。振り返らない彼の背中を眺めながら、殺風景で無骨な階段を下りる足音だけがいやに大きく耳に届く。二人分の足音だけが、辺りを満たしていた。凍てついた風が頬を撫でる。思い出したように寒さが体の内側に染みていくのがわかる。
私たちは、どこへ向かっているんだろう。
彼が何を感じているのか、私がどうしてここに留まり続けているのかの答えが出せないまま、ただ歩みだけを進めている。この広い夜の中で迷子になってしまったみたいだ。彼がいなければこのままどこまでも迷い続けてしまうような気がした。
彼は相変わらず振り返らずに進んでいく。私は彼に置いていかれないようにもつれそうになる足を動かすので精一杯だった。この震えは、きっと寒さのせい。
ふと視線を落とすと、先を歩く彼の背中が目に入る。その背中に隠された翼は、彼をどこへ導こうとしているのだろう。誰の手も届かない場所。諦めと憔悴に澱んだ狭い檻。その奥にいる彼に触れられる日が、いつか来るのだろうか。
展望台を降りると、広い公園には相変わらず私たちの他には人影もなく、時が止まったかのような風景を青白い街灯の光が点々と照らしていた。展望台はひとつの生き物のような影を落としている。
彼は振り返らなかった。こちらに背中を向けたままでてきとうな感じに手を振って、いつものように静まり返った街へと歩いていく。不自然に盛り上がった背中を、私はただ見つめていた。どう言葉をかけていいのかわからなかった。私にできるのはその背中を見送ることだけ。
……それでも、彼はきっとどこかへ行ってしまうんだろう。
私がここから動けなくても、彼は彼の意思で歩いていってしまうんだろう。彼はそうして自分の目的を果たし続ける。きっとこれからも、私と出会ったことなんてなかったみたいに。
不意にかすかな潮の香りが鼻腔をついた。風も無いのに木々が揺れた気がして、私は辺りを見渡す。私の視界にあるのは少し先を歩く彼の背中だけだ。いつの間にか夜の中に置き去りにされた私は、口を開こうとした。
それが合図のように、彼は振り返る。
「またね」と。
ささやくような声が辛うじて私の耳に届く。
顔を上げた先で、彼はいつものように笑ってみせた。