6 / 燈火 (2)
「人間だった僕を、同居人が殺したんだ」
空を仰いだままの彼は、消え入りそうな声でそう呟く。乾いた声だった。何の感情の色もない声で、彼は淡々と言葉を吐いた。私には彼がどんな思いでそれを口にしているのか想像することもできなかった。私が知らない、彼が普通の人間だった時のこと。前に聞いても話すことのなかった、きっとそれは彼の呪いの核を成す部分だ。
「それで終わればよかったのにねえ」
無理に作ったような明るい声。その響きに胸を突かれる。彼がこうして高らかに言葉を並べるときは、話したくないことを話すときだって知っていたから。彼は言葉を続ける。濁った色の瞳は、夜闇の中に沈んでしまいそうなほど暗い色をしていた。
「突き落とされたんだよね! というか僕が同居人の自殺に居合わせて、まあ……いろいろあって、って感じ。でも別に同居人が悪いとは思ってないんだ。僕が心無いことを言ったせいだって分かってる。自殺を考えるほど弱っている人間にだよ?」
乾いた笑みを漏らす彼に、私は何も言うことはできなかった。彼は私の反応なんて気にした様子もなく話を続ける。
「僕はそういう人間だった。そしてそんな嫌な人間の僕は死んだ。それで良かったはずなんだ。……でも、僕は生き返ってしまった。不幸にも」
他人事のように話す彼の口調はいつも通りだったけれど、その顔には何の表情も浮かんではいなかった。それがかえって恐ろしく思える。彼から吐き出される言葉は止まることはなく、私以外の誰に届くことのない言葉は闇に沈む街へと溶けていく。
「自殺ってことになったって……同居人を問い詰めたら教えてくれた。とにかく人間の僕は確かに死んで、それなのに僕はどうしてかここにいる」
「……こうなってから、どれくらい?」
「一年くらい? よく覚えてないけど。はじめは目が覚めたら同居人の部屋にいた。倒れてたから拾ってきたんだってさ」
彼はこの一年間、ずっとこうして生きてきたんだろうか。その存在を彼の同居人以外の誰に知られることもなく、ただ死に続けながら息を続けてきたんだろうか。
「そしてとうとうここまで死ねなかった。本当にどうしようもないよ。そう、思うだろ」
彼の目は私を見ている。ただ真っ直ぐに、初めて会ったときからそうしていたように。私は答えられないままじっと彼を見返す。彼は答えを期待していなかったのか、すぐに肩を竦めて薄く笑った。
「あなたと出会ったのが『普通の人間』だった頃の僕じゃなくてよかったよ」
「どうして?」
「嫌な人間だったんだって」
彼は自嘲ぎみに笑った。顔を歪めた彼は、さらに言葉を続ける。
「爆弾だなんて言われたら、あなたが後悔するくらいうざい文句を並べてたと思うよ」
「……初めて会った時、そんな感じだったけど」
「あんなもんじゃないよ。もっと最悪な人間だった」
彼は笑う。それからまた空を仰ぐ。そこには変わらず夜空が広がっている。人工的な光に照らされた低い空には、端を蝕むように街の影が映っていた。
あの踏切で彼に出会った日のことを思い出す。私を困らせるのを楽しんでいるかのようないたずらっぽい表情が写真のようにはっきりと頭の奥に浮かぶようなのに、それはひどく昔の記憶のように感じられた。ここで話をする彼はあの時とは別人みたいで。口調やその顔に浮かべる表情は変わっていないはずなのに、その奥に揺れる蒼ざめた憔悴が彼に深い影を落としている。私はその暗さに飲み込まれないように必死で意識を保とうとすることしかできなかった。
「あんまり表立って人にそういう態度をとったことはなかったと思うけど……まあ、感じ悪かったと思うよ。同居人と仲良くなったのは、同じように楽しくなさそうだったからってだけ。あれは努力型だったけどね。お互い人間をやるのが上手かったんだ」
彼の低く暗い声に、私は黙ったまま耳を傾ける。
そうしていると彼がふいにこちらに顔を向けた。しばらく私の顔をじいっと見てから、またふっと息を吐いた。
「なんであなたにこんな話してるんだろうね」
彼は自嘲するようにまた笑うと、ベンチの背もたれに体を預けて目を閉じる。私はその横顔をただ眺めている。
「まあ……こうなって良かったとは死んでも思えないけど、あなたみたいな変な人に会えたのは、悪くなかったかもな。深夜の散歩にいきなり植木鉢を持ってくる、みたいなさ。あなたはやっぱり普通じゃないね。あなたはただの普通じゃない人間だよ」
「……人間、」
私がその言葉を繰り返すと、目を開けた彼は私を見て軽く眉を上げてみせる。
「あぁ、不発弾だったっけ。どっちでもいいけど」
彼は少しだけ体を起こす。冷たい風が吹き抜けて彼の髪を揺らす。それから彼はそっとこちらを覗き込むようにしてまた表情を緩める。
「……あなたが何だろうが、僕を殺せないのならただの人間と同じだよ。僕にとってのあなたは、普通じゃない普通の人間だ」
私は、言葉を返せない。
私の行動は、彼が言った通りにただの人間としての行動でしかなかった。爆弾である自分の役割を捨てたようなものだ。
こちらに向けられる悪戯っぽい笑顔には深く影が差し、その奥の瞳は底知れぬ暗さを湛えて揺らめいている。その表情に、私はまた迷ってしまう。友達としての私が役立たずでも、兵器としてなら……まだできることがあるんじゃないかって、もう捨てたはずの選択肢のことを考えてしまうのだ。
私はまた目を伏せ、誤魔化すように冷たい手をポケットの中にしまい込んだ。彼はまだ私を見ていた。彼の方を見ることができなかった。彼はゆっくりと言葉を続ける。
「あなたはまだ僕のことを殺したいと思ってるの? ……あなたはどうしたいの」
その声はひどく優しく穏やかで、皮肉の色は不思議なほどに感じられない。その響きだけで私は泣きそうになってしまう。
殺したいって、そう言い切ってしまいたかった。
気休めでも彼の望む可能性の一つになれるのなら、そうしたかった。
そうできたら、どんなによかったか。
「もし……私が、」
私の声は情けなく震えて、喉の奥で絡まってしまう。それでも彼は小さく返事をしてくれた。小さい子供を見るような穏やかな色の瞳の奥に深い憂いを湛えながら、私が言葉を見つけるのをただ待っている。
「私がここで……起爆、できたら」
それで死ねたら幸せなの? って。続く問いは声になってはくれなかった。
そんな選択をしたとして、苦しみから解放されるのは本当に彼なんだろうか。
彼はしばらく私の言葉を待っていた。柔らかな沈黙のあと、結局言葉に詰まったままの私を見た彼は、呆れたように、……慰めるように、優しく目元を綻ばせる。
「あなたは世界を滅ぼす偉大な爆弾なんだろ? こんなところで爆発したら大変だよ。大事件になるね。それで僕が疑われるんだろ。爆破テロの容疑者、ってさ。ひどいことするな、不発弾のくせに。妙な羽の生えた爆弾魔。どう? 二週間くらいは話題になれるかな」
彼は笑う。私が彼を殺せるなんて、少しも信じない様子で。彼は私が起爆なんかできないことを知っている。それは友達として私を信じてくれているからだ。
私にできることはもう何一つ残されてはいない。それなのに、私はどうしてまだここにいるんだろう。死を望む彼に、どうして傲慢にも理由を与えるなんてことをしているんだろう。
「……あなたが気に病む必要なんてないよ。僕はこれまでもこうだったし、これからもそれが続くってだけだ」
優しいその声は、明らかな諦めを含んで静かな響きをしていた。
彼の生活はこれからも変わらない。私がいたところで、彼は何一つ救われないままなのだ。この人は……ずっとこのまま生きていくしかないんだろうか。誰かの手が届くこともなければ、自分一人の力で何かを変えることもできない。そうして全てを諦め切るまでその日々は続いていくんだろうか。
「僕はこうなっていろんなことができなくなったけど、それでもまあ……それでいろんなものが見えるようになったから、それでいいって思うようにしてきたよ。でもこのまま生きていたくはないかな。いますぐに死ねるなら、喜んで死ぬよ」
「……」
私は答えられない。相容れない私の願いに答えが出ることはなく、出会った頃から何ひとつ変えられないままで私たちの時間は止まってしまった。
視界が滲んでいくのを感じる。彼がこちらを見ていることを感じながらも、それを直視することができなかった。彼は何も言葉を返さない私から視線を外して口を閉じた。
(続)