2022/08/01

で6-1

6 / 燈火 (1)

 その日彼に会ったのは公園の外れ、海に近い丘の上にある展望台だった。

 街灯の点在する公園は静かで、芝生と木々が揺れるノイズのような音だけが耳に届く。コンクリートのタイルが敷かれた道を音もなく歩いていると、遠く見える展望台に人影を見たような気がした。不安と期待で足が早まる。展望台の周りはそこだけが暖かい電球の色で淡い光に照らされている。死んだような青い静寂が満ちる夜の中で、そこだけが世界の全てのようだった。

 私はゆっくりと音を殺して無骨な階段を上る。建物にすると三階分くらいだろうか。無骨な階段が永遠に続くとも思えるほどに長く感じた。

 階段を上りきると、そこに見えた景色に私は溜息をつく。それほど華やかな景色ではない。見渡す限りに広がる暗闇と、遠くに点在する街の明かり。頭上の星空。そして電灯の明かりを背中に受けて佇む彼の姿……。ようやく頂上まで登りきった私はいくぶんか消耗していて、彼はそんな私の顔を見るなり曇りない顔で笑ってみせた。

「おつかれさま。寒いね」

 顔だけをこちらに向けている彼に、私は緩く手を振り返す。その日の彼はマスクをしていて、長い前髪の隙間から楽しげに細められた目が覗いている。指先を刺すように凍てついた空気の中、彼は相変わらず薄着だった。

 電灯に照らされて西日のような色に染まりながら、彼は私を待っていたかのように私に笑顔を向ける。私はそれが本当に嬉しかった。彼がまだここにいて、こうして笑っていること。それだけのことに豁然として救われたような気さえした。

「さっき歩いてくる時から見てたんだけどさ……何持ってるの?」

 フェンスに寄りかかっていた彼は私の方に近づき、私が手にしている紙袋に視線を向ける。彼の問いには応えずに、私はただ紙袋を差し出した。彼はそれを覗き込んで首を傾げる。

「植木鉢?」

 顔を上げた彼と目が合う。心臓がおかしな具合に高鳴って呼吸が苦しくなる。

「……あげようと、思って」
「いきなりだなあ」
「チョコのお礼」
「植木鉢が?」
「そう」

 へえ、と短い言葉を零しつつも、彼は楽しそうに目を瞬かせる。

「育ててほしいなって、……なんとなく思って」
「何か植えてあるの?」
「……花の種。水をやれば春には咲く、と思う」
「へえ?」

 逆光を背負ってもなお淡い色に輝くその双眸が私を捉える。その目は相変わらず私の考えることなんて全部分かっているかのようで。それを恐れる反面、一方で自分の考えていることを全て筒抜けであることを期待してしまう自分もいるのだからどうしようもない。彼ならきっと分かってくれるはずだ、と思ってしまう。

 その植木鉢は、理由だった。彼がほんの少しでも、明日も生き残っていることを許せるようになれたら。私には彼に巣食う暗澹を取り払うことはできない。だからどんなに些細であろうとも、彼が明日に到達するための理由を作りたかったのだ。

 そしてそれは私が彼と会うための理由でもある。そうして彼を縛ることの傲慢さを感じながらも、私にはそうすることしかできなかった。誰かのために何かをしようとすることなんて初めてで……それがこんなに苦しいことだなんて、思わなかった。

 私の思惑に、彼も気が付いていたんだろう。きっと何もかも分かったうえで、私の目を見て。それでも彼は笑った。ただいつもみたいに少しだけ皮肉っぽい声色で、楽しそうな笑顔を浮かべた。

「無事に死ねたら、育てられないかもしれないけど?」

 それでもいいよ、と、私は視線を向けずに返事をする。私の傲慢が見透かされていたとしても、それが独善と思われようと……それで構わなかった。それが、彼の友達として私が出した答えだった。

「……死ねるまでの暇つぶしにして」
「そう。くれるならもらうよ。……植物、育てたことないな」

 彼は小さく呟くと、私から右手だけで紙袋を受け取った。その重みを確かめるように持ち上げたり降ろしたりした。彼はそれきり黙って考え込むように紙袋の中を見つめていたけれど、やがていつもしているように腕を伸ばして大きく伸びをした。

その横顔をそっと盗み見る。そうしていないと彼がどこかへ行ってしまいそうで。

 どうしてこんなふうになったのか分からないくらい突然に始まった関係なのに、いつしかずっと一緒にいたような錯覚に陥ることがある。そしてその度に、いつかこの瞬間に終わりが来ることが怖くて仕方がなくなるのだ。いつまでもこのままでいられるわけがないなんてこと、はじめから分かっているはずなのに。

 これで良かった、のだと思いたかった。いま私が友達としてできることは、きっとこれしかない。それが本当に彼の理由になるかも分からない。それでも、これが今の私にできる最善の選択なのだと信じたかった。

 彼は私の視線に気が付くと、不思議そうな顔でこちらを見返す。こんな不安ですらも、彼は見透かしてしまうんだろうか。淡い橙の光に照らされた彼の髪の毛が揺れている。彼は眩しそうに目を細めると、私に向かって微笑んでみせた。それから口元のマスクを少しだけ持ち上げて大きく息を吸う。

「風邪、まだ治らないの?」
「うーん。風邪なのかなあ? なんか調子が悪い、としか言いようがないんだけど」

 答える彼の表情は笑っていたけれど、その答えは曖昧にぼやかされているようだった。はじめにそう言っていたのを聞いてから一週間以上が経っている。顔色は悪くなさそうだったし、咳をしている様子もない。でも、彼はどこか疲れているように見えた。

 不意に彼は顔をこちらに向けて私の目を覗き込む。生気の色が淡く滲む瞳がこちらを捉え、私はそれを見返す。彼の言葉を待ったけれど、その視線はやがてゆっくりと地面の方に向けられる。何か言いかけたようだったけれど、結局それが言葉になることはなかった。彼は小さく息をつく。

「あなたのせいではないよ。たぶんだけど」

 その息に交じって、消え入りそうに呟く声が聞こえた。それが何のことかわからずに彼を見る。彼はこちらに背を向け、遠く点滅している港の赤色灯をぼんやりと眺めるだけだった。

「……まだ休んでたほうがいいんじゃない」
「そうかもね。……そうなのかもしれない。とても、痛くて……」

 痛い? と私は繰り返したけれど、返事はなかった。

 どうしようもなくなってしまった私は彼の隣に並び、暗く沈む街に目を向ける。眼下に広がる寝静まった住宅街に侘しく灯っている電柱の明かりが続いていて、遠くの空は高層ビルと港の赤黄色の光にぼんやりと薄明るく照らされていた。

 彼はしばらく黙ったままだった。私はそれを急かすこともできずに、彼の横顔をじっと見つめる。やがて視線に気が付いてこちらを向いた彼は、大丈夫だよ、とぎこちなく笑ってみせた。

 私たちの間にはしばらくの沈黙があった。何も話さず、ただ互いに存在だけを感じるだけの時間があった。言葉にならないような思いだけが私の中で静かに燻るように広がっていく。いつも饒舌な彼は、今日はまるで別の生き物のように口を閉ざしていた。

 少しの間を置いて隣に立つ彼は……ほんとうに私と同じものを見ているんだろうか。初めて出会った時からずっと、彼との間には途方もない隔絶がある。その隔たりは彼のことを知るほどに深まるばかりで、近づこうとすればするほどに足元を取られて沈んでいく。

 この距離はきっと埋まらない。永遠にも思えるほどに長い時間をかけたとしても、彼のいる場所には辿り着けないのかもしれない。それでも今こうして隣に並んで立つ意味はあるのだと思いたかった。それが友達として私が彼にできることだ。

「寒いとだめだな、ほんとに」
 彼の低く掠れた声が耳に届く。ほとんど吐息のような弱々しい声色だった。

「寒いの、苦手?」
「うん。嫌いじゃないけど」
「そっか」
「死にたくなるだろ」
「……」

 どう答えたらいいか分からずに黙ったままでいると、彼はぱっと顔を上げてこちらを見た。影の落ちたその顔に、はぐらかすように見慣れたいたずらっぽい笑みが浮かぶ。

「ごめん、間違えた」
「間違えたって」
「まあ、そういう時もあるよ」

 楽しそうに笑う彼の表情はいつも通りで、それなのになぜか泣きたいような気持ちになった。手を伸ばせば届くような距離にいるのに、私たちの距離はこんなにも遠い。

 そうしていると、彼はフェンスから一歩後ろに下がった。私が目を向けると、何か迷うように視線を彷徨わせたようだった。マスクで半分覆われたその顔に先ほどまで浮かべていた笑みはなく、迷子の子供のように弱々しい面持ちでまた街の方を見下ろす。

「……不発弾も、熱いとか寒いとか、痛いとか……あるの?」

 彼が口にした言葉は唐突なものに思えた。たぶん本来言おうとしていたことじゃないんだろうな、となんとなく思う。先ほどからそうして何かを言いかけては躊躇うような様子が不思議ではあったけれど、その先を聞くことはできなかった。

「あるよ」

 私が彼の問いに答えると、彼は「そっか」と短く返した。その端正な顔にはどこか虚ろな色が浮かび、私の言葉なんて聞こえていないみたいで。出会った頃だったら皮肉のひとつでも返してくれそうなものだったけれど、彼はただ何も言わずにぼんやりと遠くの空の方を見るだけだった。

 私はどうしようもなく不安になって、彼から一瞬も目を離せずにいた。彼が瞬きの間に消えてしまいそうな気がして。

 遠くで木々の騒めく音が聞こえる。彼はやがて大きく息をつくと、また私に向き直った。暗い決意の色が滲んだ双眸が私を射止める。


 言葉はなかった。彼は左腕をこちらに差し出すと、ゆっくりと服を肘のあたりまで捲り上げてみせる。

 私はその下に現れたものに息を飲む。抜けるように白いその腕の内側には、無残に引き攣れた一筋の線が走っていた。それは深々と彼の肉を裂いた痕だった。彼を殺したあの日と、そっくり同じ場所。

 あの感触が、あの日見た鮮烈な赤色が脳裏に蘇り、心臓が跳ね上がる。

 どうして? という疑問が頭の中を支配する。死んだら元に戻る、そういう性質だって、そう言っていたはずなのに。
 私の内心を知ってか知らずか、彼は捲った袖をそっと元に戻して溜息をつく。

「いつだったっけ。僕がやらせたときの……。あれ以来自殺はしていないんだ。なんかいろんなところが痛くて……いや、まあ、いいんだけど」

 彼はそのまま後ろに何歩か下がると、傍にあるベンチに崩れるようにして腰を下ろす。そうしてゆっくりと呼吸をする音が聞こえる。私は追いかけるように彼のいるベンチの端に腰を下ろした。

「……今も、痛いの?」

 痛いよ、と力無く答える声が、辛うじて耳に届く。

 彼は項垂れて自分の膝のあたりを見つめている。その様子が、ついこの間までとはまるで別の人のようで。いつもなら沈黙すら心地よく感じるはずなのに、今は知らない生き物を前にしているように恐ろしい。

 彼はそのまま動かなかった。何かに耐えるように、痛みを堪えるように俯き、力無く浅い呼吸を繰り返している。彼の纏う空気はあまりに重苦しく、そして静寂に包まれていた。私は何も言えなかった。何か。何か……言わなきゃいけないのに、焦燥感ばかりが募るだけで言葉にはなってくれない。

「……ああ、さむい」

 彼はそのまま空を仰ぐように背もたれに背中を預ける。上着の下にあるはずの翼は相変わらずその存在を無視するようにぞんざいな扱いを受けていた。


 彼は、しばらく空の方を見つめていた。

 空の低い所は地上の燈火を反射し、紗幕を通したように薄明るい色が滲んでいる。けれど彼の視線の先にある天頂にその光は届かず、全てを飲み込むかのような深い闇の中に幾つもの星が冷たく輝いている。

 私は何も言わずに空を見上げながら、ベンチの向こう側に座る彼の気配を感じていた。何を言っていいのか、何ができるのかは分からない。それでも何もしないでいることが恐ろしかった。

 どれくらいの時間が経っただろうか。長い時間が流れた気がしたけれど、実際には数分のことだったかもしれない。ふいに彼が抑揚のない声で言葉をこぼした。

「……一番初めに殺されたときも、こんな空だった」
「一番初め、」

 私が繰り返すと、そう、と言葉を返しながら彼はこちらに視線を戻す。
 前髪の隙間から覗く暗く澱んだ目が私を捉えて、少しだけ細まる。


「人間だった僕を、同居人が殺したんだ」




(続)