4 / 混濁 (前)
長くなったので分割
彼が嘘みたいに明るい笑顔で私にカッターナイフを差し出してきたのは、出会ってから何回目のことだっただろう。雲の多い日だった。その日の昼間は暖かくて、太陽が落ちても生温く湿った空気が残っていたのを覚えている。灰色の重い雲が空を覆いつくしていて、深夜だというのにどこか薄明るい夜だった。
「散歩?」
彼の澄みとおった声が背後から聞こえて、ベンチに座ったままで首だけをそちらに向ける。彼は少し離れたところでてきとうな感じに手を振っていた。足音もなかった。公園の頼りない電灯に照らされた彼は、そこだけこの暗い風景から切り離されたかのように眩しく見えた。
こちらに歩いてきた彼は当然のように私の右側に座る。何の言葉もなかった。気温が高いとはいっても夜の屋外はやっぱり少し肌寒くて、私は自分の肩を抱くようにして身を縮める。彼も今日は上着は着ていないようで、パーカー一枚で出歩いている彼はやはり寒々しい。
ベンチに腰を下ろした彼は、腕を上に伸ばして軽く伸びをする。背中の翼もそれに合わせるように僅かに上下するのが見えた。私が夢でも見ているかのような気分でそれを眺めていると、そのままの姿勢でこちらを向いた彼と視線が交差する。彼はいつもと変わらない人懐っこそうな笑顔を浮かべていた。
「最近調子が悪くてさ。風邪っぽいものをひいてたよ」
「……今までひかなかったのが不思議だった」
「体は丈夫なんだよ、昔から。でもこれが生えてからいろいろ弱くはなったかな」
これ、と重たそうに翼を持ち上げて、しかしそれはすぐに糸が切れたように地面へと落ちる。その動きはぎこちなくて、見ていてひどく不安になる。私は何も言わなかったけれど、そんな私の考えが伝わったんだろう。彼はふっと表情を緩めると、肩を竦めてゆるく笑ってみせた。
「もう平気?」
「すっかり。あなたは最近どうだった?」
「なにも、かな」
「相変わらずだなあ。まあ僕もだけど」
私が尋ねると、彼はまた明るい笑顔を浮かべた。上機嫌そうにも見えるそれにどこか心許なさを感じるのはどうしてなんだろう。
そんなふうにぼんやりと考えていたら、彼は隣に座った私を見つめながらわずかに首を傾げた。こちらを覗き込むような仕草。それからおもむろにパーカーのポケットに手を突っ込むと、いたずらっぽい目で私を見る。なんとなく嫌な予感がした。
「いいことを思いついたんだ」
「いいこと?」
「これ」
そう言って彼がポケットから取り出したのは、いつか彼が手にしていた大型のカッターナイフだった。灰色の光景の中で、その赤い柄の色が奇妙なほどに鮮明に映る。
私は彼の顔と彼の手の上にある凶器を交互に見た。彼の顔は無邪気そのもので、そこに悪意のようなものは見当たらない。だからこそ私は余計に戸惑った。
彼は私の手を引くと、手の平の上にそれを置く。私が何か言う前に、その上から包み込むようにしてそれを私に握らせた。プラスチックの柄は彼の体温が移って生温くて、その生々しい感触に思わず身震いしそうになる。
私が身を引こうとするのを制するように、彼は口を開く。
「これは、あなたの意思を拾う一環なんだけど」
ゆっくりと言い聞かせるような口調。それが私にだったのか、それとも彼自身にだったのかは分からない。重ねた手の平が離れていく。私の手の中には硬い刃物だけが残される。私はただ何も言えないままに彼を見つめ返す。
「僕のこと、殺してみる?」
それは、いつも通りの楽しそうな笑顔だった。
言葉の意味が理解できず、私は呆然と彼を見つめることしかできない。私を見ているはずの彼の目は私よりもずっと遠くの方を見つめているようで、何を考えているのか読み取れない。それでも、彼が冗談や酔狂でこんなことを言っているわけではないことだけは分かった。
彼は私から視線を外す。重い雲の層が連なる空は暗く、月も星も見えない。電灯に照らされているはずの公園は妙に暗さが際立つ気がした。そんな光景を見つめている彼の横顔は、まるで幽霊みたいで。ただでさえ白い肌はさらに青白く見えて……初めて出会った時とは別の意味で、この世のものではないように思えた。
この人は、自分が死ぬ方法を探している。そして今がその時なんだ。
今更そんなことを実感した気がして、私は何も言えなくなってしまう。狼狽えて何も言葉を返せない私に、遠くを見つめたままの彼は表情の欠けた声音で言葉を続ける。
「同居人以外に殺されたことってないな、と思ってさ」
彼の瞳は変わらず空の方を向いている。彼の双眸には澱んだ灰色だけが重なっている空さえも映っていないような気がした。私は自分の心臓の音を聞きながら次の言葉を待つしかない。手の中にあるものの重さが、嫌というほどに伝わってくる。
「同居人はすこし……そうだな、特殊だから。僕がこうなったことに関係があるから。そういうところが僕が死ねないのと関連しているのかもしれないだろ? それなら……まったくの他人のあなたなら、僕を殺せるかもしれない。そうだろ」
そこで彼はようやくこちらに視線を戻した。頭上の空の灰色をそのまま映し込んだような重い色だけがそこにあった。それに射貫かれたかのように、私は何も答えられない。喉の奥が貼り付いたようになって、呼吸の仕方さえも忘れてしまいそうで。
彼は私を見据えている。何もかも見透かしたような、それでいて何も見てはいない彼の双眸に、私の姿が映っている。怖い、と、初めて彼に対してそう思った。得体の知れない怪物と向き合っているような心地がした。
「私のこと……信じてないんじゃなかったの」
「信じてないさ。だからこれを渡したんだ」
私がどうにか掠れた声を返すと、それがおかしかったのか彼は笑い声を立てる。それから自分の手のひらにゆっくりと目を向けると、その手をゆるく握って自分の膝の上に置く。
短く息を吐いたあとに私に向けられたその顔には、もういつも通りの笑みが浮かんでいた。少しだけ気抜けしたようなその表情に、緊張していた体からわずかに力が抜けるのを感じる。それでも……先ほど感じた恐怖が、頭の奥の方に根を張っているようで。
「……これは言い訳なんだけどね」
私の手の中にある刃物を一瞥して、彼は続ける。そっと俯いてから、何か迷うように一度口を閉ざした。しかしそれも一瞬のことで、すぐに彼は口を開く。
「僕は死ねるなら何でも構わない。試してみたくなったんだよ。別の人に殺されるってやつをさ。だから……いちばん最近仲良くなったあなたに殺されてみたい。これは僕がずっとしてきたことなんだから、理由としては正当だよね?」
彼は私に視線を向けないまま、台本でも読み上げるかのように言葉を並べる。私が口を挟む隙もないほどに淀みなく語られるそれは、私に断る余地なんて与えてはくれないみたいだ。
「そしてこれは、僕があなたの友達としてできることの一つでもある。あなたの意思を拾う手伝いってやつ」
「……私の意思」
「そうだよ。人を殺すってどういうものなのか、あなたは身を以て知るべきだ。あなたが一番最初に僕にさせようとしたことがどんなことなのか、あなたは知っておかなければいけない。そうだろ」
「でも、当たり前に生きていたら人なんか殺せないって……」
彼はそこでようやく私にその目を向ける。
「当たり前に生きてこなかっただろ、あなたは。」
その表情は笑っていたけれど、今まで見た中で一番冷たい笑みに見えた。それはいつも通りの笑顔のはずだ。いつも通りの、はずなのに。それが……どうしようもないほどに恐ろしいものに思えて。
私は反論しようとしたけれど、何も言葉になってはくれなかった。
彼の様子は明らかにそれまでとは違っていて、どうしたらいいのか、どうするのが正しいのか、私にはわからない。私に……そんなことができるのかも。でも、やらなければ彼は私から離れていってしまう気がして。それだけは確かで……。
私は思考をまとめることもできないままに手の中にあるカッターナイフを見下ろす。何の変哲もない安っぽい凶器。こんなちっぽけなものに人の命を奪うほどの力があるとは到底思えない。それなのに、それは私の手の中でひどく重く感じられた。
……私は。
黙ったままの私に、彼はもう一度小さく笑ってみせる。先ほどの冷え切った物とは違う、ため息みたいな笑い方。それが私を安心させてくれているように見えて、私は泣きたいような気持ちを覚える。この人はきっと今だって死にたいと思っているはずなのに。それでもこうして、きっと私のために……こんな笑い方をするのだ。
彼は私の手の中にある刃物に目をやって、ぽつりと呟く。
「自分勝手ってわかってるよ。なんでも棚に上げる癖があるんだ。同居人によく言われる」
「……そんなこと」
「ごめんね。僕にはあなたに強要する権利もなにもないけど」
その双眸が、私の方に向けられる。いつも通りの穏やかな笑み。私はただそれに見つめられているだけで言葉が出てこなくなってしまう。
「協力してくれたら嬉しいな、と思うんだよね」
彼の声音には、どこか諦観じみたものが滲んでいた。私の答えなんて期待していないみたいに。先ほどの言葉は本当に言い訳だったのか、息をつく彼の横顔にはどこか迷いがあるように見える。そんな彼は初めて見たはずなのに……それがおかしいとは思わなかった。いつもこうだったような気さえした。
彼は私の言葉を待っている。私が、何か言わなければならない。
「……もし、」
「うん?」
無理やり絞り出した声が彼に届いたかどうか不安だったけれど、彼はこちらを向いてくれた。彼の言葉を咀嚼するように頭の中で繰り返しながら、ゆっくりと口を開く。
「私が……本当に、殺せてしまったら?」
そうしたら、爆弾としての私はどうしたらいいの? とは、言えなかった。
ひどく情けなくて、利己的な質問だ。そんなの彼には関係ないことなんだって……分かってる。私が彼に従いさえすれば彼の願いは叶うかもしれない。これはたったそれだけの話のはずだ。
彼は少しだけ考えたようだった。そして私に視線を戻して苦笑する。
「そうしたら、今度はちゃんと正しく死ぬ人間を選びなよ。僕の他にもいるだろ? 死にたい人間なんてさ。むしろ僕を殺そうとするより楽かもしれないよ?」
まるで冗談を言うみたいな軽い口調。その言葉が本心からのものなのかは分からない。それでもそのいつも通りのはずの声が、私を責めるように心臓の奥の方に滞留する。
どう言葉を返していいのかわからなかった。今ここで彼に従うことが、私にとって……彼にとって、どのような意味を為すだろう? 私はただ、この刃物を使って彼を殺せばいいだけ。それだけだ。それで彼が死ねるのなら……それでいいはずなのに。
彼は笑う。「ごめんね」という掠れた声が耳に届く。
「これは僕が死ぬ為だけの話なんだ。あなたの意思がどうとか嘘だよ。隠さないけどさ。言い訳だよ。ぜんぶ、僕が死にたいだけなんだ」
彼の瞳の色は凪いだ海のように静かで、その底には何もないように見える。それが怖くて仕方がないのに、どうしてか視線を逸らすこともできなかった。
ごめん、と、彼はもう一度繰り返す。その言葉に何の意味があるんだろう。謝らないでほしい、という思いが言葉になることはなく、耳に痛いくらいの沈黙だけがこの場に残る。彼は何もかも分かっているみたいに笑っていた。
頭の中で言葉にもならない澱んだ思考だけがぐるぐると回っては消えていく。どうしようもなく苦しいのに、その中の何一つも言葉になってはくれなかった。
そうしているうち、彼はそっと息をつく。導かれるように視線を向けると、彼はこちらに手を伸ばした。それから私の手の中にあるカッターナイフに手を添え、その刃を躊躇なく引き出した。かちかちかち、という乾いた安っぽい音がいやに大きく辺りに響くと同時、銀色の鋭い輝きが視界に入る。
彼はそれに指先を押し当てる。
その意味を考える前に、彼はそのまま指を引いた。
俄かに眉根を寄せる彼の指先に血の雫が膨らみ、やがて下へと伝って細く赤い筋ができる。その全てがスローモーションのように私の目に映る。
その動作にはあまりにも躊躇いがなくて、止める間すら与えられない一瞬の出来事だった。私の手の中で冴えた光を放つ銀色の刃物と、彼の白い指を伝う赤い血。それがこの夜の明かりの中であまりにも鮮やかに見えて、私は声を上げることすらできずに息を呑む。
彼はしばらく苦い顔で自分の指先を見つめていたけれど、私のほうを見てもう一度笑みを浮かべた。無理やり作った笑顔だと明確に分かるような、へたくそな笑顔だった。
「血が出るような死に方は、嫌いじゃないんだ。ちゃんと死ねる気がするから」
その表情も、声も、いつも通り穏やかに見えた。
でもきっと違う。その奥には今まで見たことのない感情があるように思えた。それが何なのかは分からないままだけれど。
「……薬とか首吊りとか、あれはあんまり良くなかったな。薬のときは普通に目覚めて死んだのかどうかも分からなくて……死んだ心地がしなかったよ」
あはは、といつもの調子を装う彼の声は乾いていて、聞いていると心臓を締め上げられているような心地がする。自分の感情の正体もわからないまま、私は彼の言葉を聞いていることしかできない。
「首吊りのときは……あれも海に飛び込んだ時と同じだな。死んでは生き返り、を繰り返してたら同居人に引きずり降ろされた。嫌なもの見せたよ。ほんとにさ、かわいそうだよね、同居人も」
まるで他人事のように笑う彼から、私は目が離せない。目を離したら取り返しのつかないことが起こってしまいそうで。こんなことを話されても、私には何も返せるものなんてない。それなのに……どうして、そんな風に笑って話をするんだろう。
そうしているうち、彼の顔からふっと表情が消える。何かを諦めたように一瞬だけ唇を引き結び、私に視線を向けないままで呟く。
「そんな顔しないでよ」
それは、ほとんど吐息のような、掠れた声だった。それでもこの澱んだ色の静寂に満たされた夜の中では聞き逃すことなんてできなくて、私はようやく身体を動かすことができる。慌ててポケットの中を探り、そこにあるポケットティッシュを取り出して彼に差し出した。
彼はゆっくりとこちらに目を向ける。そこにあるのは少しだけ呆れたような、いくぶんか明るさを取り戻した笑顔だった。
「そこはハンカチとかじゃない?」
「持ってなかったから……」
「嘘だよ。ありがとう」
彼は無傷な右手だけで器用にティッシュを取り出すと、傷口に押し付ける。血の止まりかけた傷口に触れるたびにわずかに顔を歪めながら、黙ってその作業を繰り返した。傷は深かったようで、押し付けられたティッシュがみるみる赤く染まっていくのが私の目にも映る。それでも、すぐに血は止まったようだった。彼はそれを確認すると、血に濡れたティッシュを丸めて自分の上着に突っ込む。その仕草はやっぱりどこか慣れているような感じがして、どこか居たたまれないような気持ちになる。
「痛いなら、やらなきゃいいんじゃないかな……」
「死んだら治るから。死なないと治らないけど」
「……重症で生き残ったらどうするの?」
「その時は同居人に殺せって言ってある。まだないけどね」
彼は相変わらず何でもないことみたいに答える。かわいそうだとか言いながらも、きっと彼らにとってはそれが当たり前のことなんだろう。死ぬための生活であり、死なせてあげるための生活。それが彼と彼の同居人の意思で、役割なのかもしれない。
「これからはあなたに頼んでもいいかもね」
「やめてほしい……」
「やっぱり駄目かな? 直接手を下すのは嫌?」
私は答えられない。彼にそれを提案されてひどく動揺したのは確かだ。でも。私がここでどう答えようと、きっと彼は自殺を繰り返すのだろう。私と出会う前からそうしていたように、死んでは生き返り、生きては死にを繰り返す。だから……私は余計に分からなくなってしまう。私がどう在るべきなのか。結局のところ、彼は私にどうしてほしいのか。私が、どうしたいのか。
この刃物で彼を傷付けるのは、きっとできない。でも、そう告げたとして……私はこれからも彼の友達でいられるだろうか。役割のない私は、それでも彼の隣にいる意味を見出せるんだろうか。
「あなたはやっぱり向いてないね、不発弾」
黙っている私の心中を察したのか、彼はまた困ったような笑みでこちらを見た。なんだかすべてを見透かされているようで、情けないような泣きたいような気分になってくる。彼の力になりたい。ただそれだけのことなのに、どうしてこうもうまくできないんだろう。
「手伝おうか?」
彼はもう一度ふっと息を吐いた。それはきっと溜息じゃなくて、彼が自分自身の感情を落ち着けるためのものだったんだと思う。それから、彼は穏やかな表情のまま私に向かって手を差し出す。
私がその意味を理解する前に、彼は私の手の中にあるカッターナイフを手に取ってそれを逆手になるように置き直した。私の手首をそっと掴み……彼の左腕の手首に突き立てるように、私の手を動かす。先ほど引き出した刃の先が、彼の手首に触れる。
不健康なまでに白い皮膚の下に血管が青く透いて見える。触れている刃物越しに彼の脈動すら伝わってきそうなくらいに自分の感覚が冴えていくのがわかる。
世界から音が消え去ったかのように、あたりは静まり返っていた。
自分の心臓の鼓動と浅い呼吸の音だけが聞こえる。
「やってみて」
小さく……本当に小さな声で、彼は私に囁く。
どこか申し訳なさそうな、自嘲めいた笑みがこちらに向く。彼の腕に刃物を突き立てている。刃物を握る手とは繁体の手で、私は自分の服の裾をぎゅっと握りしめた。体の中心から恐ろしいほどに冷え切った恐怖が全身を蝕んでいく。
私は今、何をしているんだろう。どうしてこんなことをしているんだろう。そんな疑問ばかり浮かんでは消えて、指先が震えそうになるのを必死で抑える。それでも彼の視線から逃れることができなかった。それが呪いであるかのように、私はその昏い色の瞳に囚われてしまう。
目の前には彼の手首がある。ほんの少し力を込めればこの凶器は彼の腕に食い込み、少なくとも今彼が望んでいることを叶えることができる。
たったそれだけだ。
私の意思。私の役割。私がやらなくてはならないこと……。
私は、刃物を握る手に力を込める。
……私は。