4/混濁(2)
私は、動けなかった。
彼に導かれたそのままの姿勢から少しも動くことができず、ただ体の震えを彼に悟られないよう奥歯を強く噛み締めることしかできなかった。それでも私の手は微かに揺れて、手の中にある銀色の刃は不安定に煌めいていた。
彼の顔が見れない。見るのが怖かった。どんな表情をしているのか想像もつかなくて、見てしまったら私の中でなにかが壊れてしまうような気がして。
彼の望みを叶えること。彼を殺すこと。それが私の意志だと思いたかった。
彼は何も言わなかった。ただ静かにこちらの様子を伺っている気配だけがあった。
それは多分、私に対する、そして死に対する期待だったんだと思う。
私がいま、その役割を与えられている。他でもない彼に。それなのに、自分の身体は少しも動いてくれない。否定も肯定も口にすることすらできないままにただ沈黙を押し付けられ、私の身体は凍り付いたように固まってしまっていた。
その通りに、してあげたかった。私が今ここで彼を殺すことができたら。そうしたら彼は報われるんだろうか。私が切るだけで。……たった、それだけのことで。
私はもう一度両手でカッターナイフを握り直す。
息が苦しい。肩に圧しかかる迷いに全身を縛り上げられているかのように、体が上手く動いてくれない。ちっぽけな凶器は少しでも気を抜けば手から滑り落ちてしまいそうだった。
息遣いさえ届くほど彼との距離が、途方もないほどに遠く感じられる。彼はこちらを見ている。それは私自身ではなくて、私の中の何かを確かめているようでもあった。
私がこの期に及んで迷っていることも、きっと彼は分かっている。私の意志が揺らいでいることは彼に筒抜けで、だから彼は何も言わない。
カッターナイフの鋭角が、彼の皮膚にほんのわずかに沈む。まだ皮膚は切れていない。刃を当てて力を込めるまでは簡単なんだ、といういつかの彼の言葉が頭をよぎる。あの時は……笑えてたんだっけ。いまは少しも笑えそうになかった。彼が言っていたその意味が、理解できてしまったから。
「……切っていいよ」
彼の促す声。囁くように、私に選択を委ねるように、その声は私に呪いをかける。
私は手の中の刃物にさらに力を込めた。今度は先ほどよりも深く、その先端がゆっくりと彼の肌に沈んでいく。彼が何かに耐えるように……期待するように、息を呑むのが分かる。
私は震えそうになる体を抑えつけて、ゆっくりとそれを押し込みながら手前に引いた。
銀色の刃は更に深く食い込み、その皮膚を破る。薄い刃が、肉に滑り込んでいく。
一瞬遅れてその感覚が……彼の、肉を裂く感触が伝わる。
刃物の先にじわり、と滲む赤色が見えて、私の視界がぐらりと歪んだ。
「っ……ごめん、」
反射的に手を止めていた。限界だった。指先から伝わる生々しい肉の感触が毒のように全身に回る。これ以上続けたらおかしくなってしまいそうで、それ以上は手を動かすことができない。
私はわずかに彼の皮膚を裂いたカッターナイフを彼の体から離す。
……離そうと、した。
「切って」
彼の右手がそれを阻んだ。先ほどしていたように私の手を包むように手を重ねる。死人のように硬く冷え切った手が、私の手から熱を奪っていく。
「ごめん、私、」
「何もしなくていいから」
「私は、」
「いいから」
彼の手が刃物を握ったままの私の手を動かす。二人分の力が掛かった薄い刃は、いとも簡単に彼の肉を裂いて奥へと進んでいく。抵抗なんてできなかった。深々とその腕に突き刺さった刃を見て、真っ白な顔をした彼は小さく息を吸った。覚悟を決めるように。
彼の手に押さえつけられて、そのまま私は腕を引かれる。
深い縦の線が手首から肘の内側に向けて伸びていく。
それに合わせて彼の指先が震えるのが視界に映る。
彼が短く息を吐く音が聞こえる。
ちっぽけな刃が彼の肉と血管を裂く感触。
腕に描かれた線はすぐに赤く滲んで崩れ、流れ出た血液が雫になって零れ落ちる。
彼の体に、私が傷をつけていく。
私のせいで……私の、意志で。
こんなこと今すぐやめたかった。最初からやらなければよかった!
それでも彼は私がそうすることを許してはくれない。制御を失った体には少しも力が入ってくれなくて、重ねられた手には痛いくらいに力が込められていて。
「やめて、」
絞り出した言葉は懇願でしかなかった。手を離したかった。それが私の意思ならそれでも構わなかった。傷口から滲む鮮烈な赤が目を焼いて脳に届き、視界が歪む。彼の手を振り払ってしまえばそれまでだったかもしれない。それでも、手先に伝わる悍ましい感覚は全身を貫くように私の力を奪っていく。
彼から向けられる確かな期待の視線。それから逃れることもできず、ただ呆然と目の前に出来事を見つめることしかできない。刃は彼の肉に食い込み、赤い雫は滴り続ける。
ぽたぽたと重い雫が落ちる音がする。その音が頭の奥底に重く響くたびに、私の中で何かが軋んでいく。
赤い線が肘の内側近くまで届いた頃、彼はようやく手に込めた力を緩めた。深々と突き刺さった刃がゆっくりと引き抜かれる。音もなく刃は抜け、その切り口の断面が目に入る。ぞっとするほどに鮮やかで、眩しいほどに艶やかな血の色。
彼は顔を上げる。その表情は痛みに耐えているようにも見えたし、この状況を楽しむようにも見えて……そしてそのどちらでもないような気もして。
それでも彼は、私と目が合うと笑ってみせた。いつもよりも不器用な笑い方で。
「……あぁ、これだと……自殺と一緒かな」
冗談めかした口調は、どこか虚ろだった。言葉が出ない。喉が震えて、うまく息ができない。ただ彼の言葉と目に映る光景だけが頭の中をぐるぐると回って、正常な思考なんて少しもできはしなかった。
彼の手が離れる。その瞬間、乾いた音が地面の方で鳴った。私の手から滑り落ちたカッターナイフが落ちる音。耳に痛いくらいに冷え切った静寂の中でその音は驚くほどに響いて、私の意識を引き戻す。足元に転がったカッターナイフに目をやって、彼はふっと息を吐いて笑った。
彼はゆっくりと左腕を持ち上げる。手首から肘の内側まで続く真新しい傷を眺めながら、彼はその手を握る。まるでその感触を確かめるように。
私は動けなかった。彼の傷も声も、その眼差しさえも……全てが怖くて堪らなかった。
彼の腕からは止めどなく血液が溢れていて、彼の白い肌を赤く染めている。目の前にあるはずのその光景はひどく現実味がなくて、悪夢でも見ているようだった。
傷口から目を離せない私を覗き込むように身を屈めながら、彼は呟く。
「見た目だけは……派手なんだけどなあ、痛いし。すごく」
だから嫌いじゃない、と続ける彼の声は普段よりずっと弱々しくて、震えているようにさえ聞こえた。浅い呼吸を繰り返しながら、それでも彼は呑気なことを言って笑ってみせる。痛みに歪んだ顔が笑顔の形を作って私のほうに向けられる。
私は何の言葉を返すこともできない。脳が焼け付いたかのように思考が回らない。
「ごめん、付き合わせて」
吐息だけでかすかに笑うと、彼はもう一度傷口に目を向ける。そして、小さくため息をついた。それは諦めたような……あるいは失望したかのような仕草だった。
私は何も言えなかった。言うべき言葉を何一つ見つけられなかった。傷から溢れてはベンチや地面に落ちる彼の血液は、紛れもない現実だ。私の目の前にには血まみれの腕があって、足元には転がったままの凶器がある。私がやったのだ。どんな理由があれ。その事実だけが私の前にあって、他の全てを呑み込んでしまう。
「もう帰っても大丈夫だよ。……死ねたらいいけど、これだとあなたが困るかな。刃物に指紋が……とか、さぁ。笑えないし。持って帰って証拠隠滅しておいてよ」
血の滴る音に、彼の呟くような声が混じる。それは何も言えずただ震えるばかりの私のためだったのか、それとも彼自身の気を紛らわすためだったのか。そんなことを考える余裕もなく、私はただ彼の隣で俯くことしかできなかった。
何もない手の平の中に、彼の肉を裂いて刃を進める恐ろしい感覚が、鮮明に残っている。その感触を忘れてしまいたくて強く手を握り締める。まともに力なんて入らなかったけれど。指先から伝わる感覚が消えることはなく、それが余計に恐ろしくてどうしようもなかった。
「死ねると思う?」
淡い微笑みを浮かべた彼が尋ねる。私は口を開いたけれど、何も声になってはくれなかった。彼が背負う苦痛の影が私の胸の奥の方を抉り取っていくようで……そしてその苦しみは、今こうして目の前にある。
そうして私は思い知らされてしまう。私が彼にしたこと、そしてそれを繰り返す彼に巣食う昏い呪いのことを。
「あなたのほうが死にそうな顔してるよ」
身動きもできないほどに冷たい影に縫い留められた私をよそに、彼は笑っていた。笑ったような溜息のようなものがすぐそばで聞こえる。私の様子を見てなにか聞き出そうとするのは諦めたのか、彼は深く息を吐き出した。何もかもを吐き出すような、長く深い溜息だった。
「……はじめはちゃんと死ぬことについて考えてたんだ。今度は死ねるかな、とか、死後の世界なんかなければいい、とか……でも最近はそういうのも忘れてた。慣れたんだろうね。でも……あなたは初めてなんだよな。おかしいのは僕だ。いつだって」
おかしくないよ、という一言すらも言葉にならなかった。
それでも彼は私の顔を見て「おかしいんだよ」と言って力無く笑う。
彼は私の方をちらりと見てから、捲り上げていたパーカーの袖を元に戻した。瞬く間に赤い色が滲んでは面積を広げていく。傷口が隠れた途端、それまで麻痺していた感覚が働きだしたかのように彼の表情が歪むのが分かった。それを誤魔化すように、彼は左腕をゆっくりと体の前に抱え込むようにして、目を閉じる。
血まみれになった腕を私から遠ざけようとしているんだって……隣に座っている私が血で汚れないようにしているんだって、そう理解するのに時間はかからなかった。こんな時なのに、そんなことを気にして。自分のことなんてまるで省みずに。
その瞬間、私の喉の奥から何かがせり上がってきた。恐怖なのか罪悪感なのか後悔なのか、自分でもよく分からない感情が喉元まで出かかったところで、彼の掠れた声が私の耳に届く。
痛いな、と、目を閉じたままで独り言のように彼は言葉を零す。その横顔は微笑んでいるようにも見えたけれど、それは私に向けられたものだったんだろうか。きっとそれは痛みの先にあるものに対する諦念と期待だった。それがきっと彼のすべてだった。
私はこんなことを望んでいたんだろうか。これが彼を救うことなんだろうか。この悍ましい感覚を彼に与えることだけが彼の救いになるのなら、私は……、私には、彼を救うことなんて。この底知れぬ恐怖は、本当に私が自らの手で彼を傷つけたことだけが原因なんだろうか。
何か言わなければいけない。そう思うほどに頭は真っ白になって、舌は痺れたように動かなくなってしまう。彼の袖の下に隠された傷口からは未だ血が滲んでいて、袖に滲んだ血は彼のお腹のあたりの布すらも赤く染めていく。
彼が薄く目を開けてこちらに視線を向ける。底知れない影が渦巻く瞳から逃げるように目を逸らしながら、私は黙ったまま首を横に振る。結局私はただ怯えているだけだ。彼の傷を目にして、彼の苦痛の影を目の前にして……何一つも、役になんて立てない。
「怒ってる? ……ええと、だったら、もう……、あぁ、もう会わない方があなたの、……あなたが、そうしたくないなら」
彼の声音からどんどん力が抜け落ちていくのが分かる。呼吸が浅く短くなって、白い頬がますます色を失っていく。ほんとうに私のことが見えているのかも分からないくらいに虚ろな瞳の色が私の言葉を余計に奪っていく。
「……わ、たしは……どうしたら、いい?」
ようやく音を結んだ言葉は、ほとんど涙声みたいな情けない響きをしていた。震えた喉は声の出し方を忘れてしまったかのように、何度も嗚咽にも似た詰まり方をする。それを聞いた彼は肩を竦めるように小さく笑った。
「……したいように、したらいいよ」
掠れた返事が聞こえたあと、彼の体がゆっくりと傾ぐ。私の方にゆっくりと体重が預けられてきて、私はなす術もなくそれを受け止める。視界の端に彼の色素の薄い髪の毛が映った。浅い呼吸がすぐそばで聞こえる。
「……どうだった?」
耳元のすぐ側でちいさな声がする。何を問われたのか最初は分からないくらいだった。
その問いに私が感じていたそのままを答えたら、彼は失望するんだろうか。
何の役にも立たない人殺しの兵器に、そして彼の望みを叶えられない友達に。
こんな感情を抱くことですらきっと彼を裏切っている。そんな恐れにも似た感情に苛まれた私は、彼の問いかけに答えることすらできない。
彼はそんな私を責めるでもなく、そのまましばらく私に身を預けて沈黙していた。
「私は……、私には、」
どうにか言葉を返そうとしても、また同じような言葉を繰り返すことしかできなかった。その先に続けるはずの言葉が思い浮かぶよりも前に自分の中の全てが声にならないまま溶けていくような感覚に襲われる。
彼はほんの少し頭を動かして、こちらを見たようだった。その表情は見えなかったけれど、きっと笑っているんだろう。
「同居人にやらせたときと……同じ顔してるよ」
ふっと笑うような微かな気配。
「やっぱり……自分の、自分で。……じゃないと、後味悪い、っていうか……はは」
「……何を言いたいのか、わからないよ」
「僕もだ」
うわごとのように言葉を零す彼の呼吸は、次第に感覚が長くなっていく。眠りにつく前のようなそれに、私の胸の奥が冷たい影に蝕まれていく。痛いほどに拍動する心臓の音すらもどこか遠くて、まるで現実感がなかった。
ほんとうに死んでしまう気がした。きっとそうなるんだろうと思う。
それでいいはずなのに。それを望んでいたはずなのに。
それなのに……どうして今更こんな気持ちになるんだろう。
寄りかかったままの彼の体温が、ゆっくりと私に移る。この澱んだ空気の中で、そこだけが奇妙なくらいに鮮明に感じられた。決して高くないはずのその温度が私の思考まで溶かしていくようで……このまま何もかも忘れてしまいたくなる。
あぁ……いっそこのまま私も死んでしまえたら。
何も知らないまま、一緒に終わることができたなら。
そう願ってしまうことが間違っているなんて、分かっていたけれど。
「……ごめん」
私が零すように呟くと、彼の唇がかすかに動いた気がした。何かを言おうとして途中で諦めたような、そんな囁き声。寄りかかる彼の重みがたしかに肩に感じられる。
「……死ねなかったら……次は、ちゃんと……自分でやるから」
力無い声は、何かを諦めるように小さく笑った。
それきり、彼の声は聞こえなくなる。呼吸の音だけが続いて、やがてそれも空気に溶けるように弱くなっていく。地面やベンチに落ちた彼の血液が徐々に鮮やかさを失っていくのを茫然と眺めながら、私はただ恐怖に竦んでいた。まどろむように浅く弱くなっていく呼吸を聞きながら……私はただ、彼の体から力が抜けるまで、こうして座っていることしかできずに。
死なないでほしい、なんて、最後まで伝えることができなかった。そんなことを言ったとしても彼は笑ってくれるんだろう。そうして普通の友達にしかなれなかったとしても、何の役割もないただの私のままでいたとしても……きっと、この関係は変わらず続いていくのだろう。それが私の全てを奪っていくみたいだった。私の中にあったはずの曖昧な役割も感情も彼のあの昏い笑顔が奪い去って、そうして私の中は空っぽになってしまう。でも、私は……私にできるのは。
私は傍らの彼に目を向ける。目を閉じたままの青白い顔は穏やかに微笑んでいるように見えた。もうすぐ訪れるであろう永遠のような時間を思って、私は静かに息を吐く。
「おやすみ、」
呟いた言葉に、返事が返ってくることはなかった。