2022/07/17

3.5

でいじーかったー

3.5 失意

 「誰かが自分のことを考えてくれるっていうのは、とても幸せなことなんだって思った。……ありきたりかな?」

 彼女はそう言うと、ほんの小さく微笑んだようだった。その視線は相変わらずこちらに向いてはいない。けれどその言葉の端には確かな温度があった。それは彼女が話を始めてから初めて感じたものだった。

「私が目覚めてから、初めて人間として、ここにいる個人として尊重してもらえた気がした。彼と会った時の私は『私たち』のひとつでしかなかったから、自分がどうしたいとか考えたことがなくて。だから、……嬉しかった」

 机に視線を落としたままの彼女は、どこか遠くを見るように目を細める。

「彼はきっと、私という人格を認めてくれていて。そのうえで、『ひとりの人間として』友達になってくれたんだと思います。だから。私は……それに応えたかった」

「君自身はどうしたかったのか、聞いてもいいかな」

 私が問いかけると、彼女は一瞬こちらに視線を向け、すぐにまた目を伏せて黙り込んでしまう。取調べじみた質問だっただろうか。

 ややあって、彼女は言葉を選ぶようにしながらぎこちなく口を開く。

「はじめに言った通りです。私を彼を殺したかった。……殺してあげたかった」

 でも、と続ける声がかすかに震えたような気がして、私は彼女の目に視線を向ける。逃げるように視線を逸らし、彼女は俯いたまま掠れた声を吐く。

「でも、死んでほしいわけじゃなかったんだと思う。……友達、だったから」
 その言葉を噛み締めるようにして、彼女は目を閉じた。

「彼が苦しんでいるのを見たくなかった。助けたかったのかな。おこがましいけれど。友達として一緒にいるのなら、彼が私のことを考えてくれるのなら……私も、彼の抱えるものをどうにかしてあげたいなって。でも、彼の場合はそれが死ぬことだったから、少し難しくて。友達として彼を助けたら、……私は。」

「親しい人が死ぬための手伝いをする、ということだからね。確かに難しいのかもしれない。彼と一緒にいるのが楽しかったのなら、なおさら」

 私の言葉に、彼女は小さく頷いた。引き結んでいた口元が微かに緩む。そっと目を開いた彼女の瞳の中で窓から差し込む光が不安定に揺れていた。

「あのまま続けばいいって、思ってしまった。彼が苦しんでいるのは知っていたのに。それが申し訳なくて……ずっと、後ろめたくて。彼はたぶん、私がそう思っていることにも気づいていたんじゃないかな……」

 力無く、彼女は笑う。そこにはもう感情の残滓のようなものしか残されてはいないように思う。彼女が感じていたであろう無力感が、何もかもを諦めたような表情に染みついているようだった。

 私たちは、そのまま互いに口を閉ざして向かい合う。雲のかかってきた窓の外では不安定に日が翳っており、そのせいかどこか白っぽく映った。私は記録端末に視線を落としながら、意識だけを彼女に向ける。音のない部屋の中、彼女はただ何かに耐えるように沈黙していた。 

 しばらくして、彼女はふと思い出したように顔を上げる。それからどこか心許ない様子でこちらに一瞬だけ目を向け、ぎこちない動きで上着のポケットに手を突っ込んだ。そして何かに怯えるような表情で取り出したそれを、ゆっくりと机の上に置いてみせる。

「あの時……、彼が公園でばらまいたのを、少しだけ拾って取っておいたんです」

 取り出されたそれは、幾枚かの白い羽根だった。

 そのほとんどは柔らかく軽そうな小さい羽根で、中には風切羽のように細長いものも混じっている。折れたり曲がったりしているものもあるけれど、それは電灯の明かりのもとで確かに白く輝いて見えた。『彼』のものなのだろう。

「血が出たときなんかはこういう小さいのになるんだって……布団でも作れそうだねって、よく笑ってた。大きいのは彼から落ちてしまったもの。……羽の扱いが、ずいぶん雑だったから。それを拾う私を見て、変な顔をしてました」
「……本当に羽、なんだね」
「信じてなかった?」
「実際に見せられると、少し驚いたよ。現実離れしてるな、って」
「そうですね。……それがかわいそう、で」

 かわいそう? と繰り返すと、彼女は溜息のように小さく息を吐いて笑った。それから手の中の白い羽根を眺めて眉をひそめながら、言葉を続ける。

「どんなに血が出て身体が壊れても、こうして現実じゃなくなってしまうっていうのは……死にたい彼にとっては、苦しかったんじゃないかな」
「便利な仕様、と言っていたものだね」
「そう」

 羽根を持つ指先に、わずかに力がこもる。

「でも、死ねなくてもいいなんて……きっと、思ってなかった。『どうせ死ねない』っていつも笑ってたけど。痛いのも苦しいのも嫌なのに、それでも何度もそれを繰り返さなくちゃいけないくらいには……当たり前のように、死にたいほど死にたがってた……。それが、彼の意志でした」

 少しだけ持ち上げた羽を、彼女は目を細めながら握りしめる。自分の罪を贖うように。
手の平の中に閉じ込めるようにそれを握って目を閉じる姿は、やはり懺悔のように私の目には映った。

「この人は本当に死にたいんだなって分かった。はじめはこの人は本当は死にたくないんじゃないかな、なんて思ってた。でも、あれは……いつか死ねたらいい、みたいな曖昧なものではなくて、自殺するときはいつだって、いま死にたかったんだって。それなのにあのまま続けばいいなんて思うことが、どんなに罪深いことだったか」

 目を開いた彼女は手の中にある白い羽根よりも更に遠くを見つめるようにしながら言葉を吐く。私は何も言わずにただ彼女を見つめることしかできなかった。

 視線に気が付いた彼女は、ふっと口元に力のない笑みを浮かべると、羽根を手の平で包むようにしてからそれをポケットに戻す。乾いた吐息の音が微かに空気に溶けていく。私と完全に視線を合わせないままに、また視線を空中に彷徨わせた。

「ぜんぶ……分かってたのかな」

 掠れ切った声が辛うじて私の耳に届く。何も映さない瞳が私の方に向く。その問いに対する答えを探しているのか、あるいは最初から求めてはいないのか……そんな重い沈黙の後で、彼女は小さく首を振る。

「彼が当たり前にそうしてくれたように、私も彼を個人として尊重したかった。でも、どうしたらいいのか全然分からなくて。……いえ、わかってたんだとは、思います。……でも、友達を殺すのは、難しいから」

 だから、と続けようとした彼女の言葉が途切れる。言いかけた言葉を飲み込むような間が空き、その後に続く言葉はなかった。

 友達として殺すも殺さないも、彼女の話を聞く限りはその両方がごく自然な感情であり、どちらが正しいわけでもない。そしてそのどちらもが彼女の本心だったのだろう。だからこそ彼女にとっては余計に難しい選択になってしまった。矛盾する感情を抱え込んだまま途方に暮れるしかなかったのだ。そしてそれはおそらく今もまだ続いている。『彼』はここにはいない。繰り返されるその問いに答えなどは見つかりはしない。

 私はしばらく彼女の言葉を待ったが、それ以上続くものはなかった。私は尋ねる。

「彼とは……頻繁に会っていたの?」

「……何日か続けて会うこともあったけれど、一週間くらい空くこともあった。約束なんてしてなかったから、会えたときだけ。……でも、初めて会ってから今まで、一ケ月とかそれくらいだったのかな。たったそれだけの、間だったのに。」

 そこで言葉を切ると、彼女はわずかに顔を歪めた。泣きそうな顔だと思ったけれど、その目には感情らしい感情の色はない。

「本当に無力だった。私は……結局、何もできなかったな……」

 苦しげに吐き出される言葉だけが小さな部屋に浮かんでは消えていく。それは爆弾としてではなく、彼の友達としての失意なのだろう。

 彼女が『彼』を救えなかったことに対して抱いているであろう後悔や自責のすべてを知ることはできない。それでもその暗澹に沈んだ表情は、見ているだけで息苦しくなるほどに切実だった。

「それでも、君といるときの『彼』が楽しそうだったのなら、それを信じてもいいんじゃないかな」

 私の言葉に、彼女はゆっくりと視線を上げる。澱んだ色をした双眸には目の前にいる私の姿さえ映ってはいないように感じられた。

「彼が彼の同居人としか関わることができない生活を送っていたのなら……君と出会ったこと自体が彼の救いになり得たはずだ。君がそうだったのと同じように。少なくとも私はそう思うよ」

 私の言葉を呑み込もうとするように、彼女は沈黙する。やがて長いため息とともに肩を落とすと、また少しだけ顔を俯かせた。

「そうでしょうか。……そうだったら、いいですね」

 私の言葉に同意を示すというよりは独り言のように呟いてから、彼女はまた目を伏せて黙り込む。私が何を言ったとしても何の意味も為さないことは分かっている。再び訪れた静寂の中で、私は彼女の浅い呼吸の音だけを聞いていた。

 彼女はやがて、膝の上で組んだ両手をじっと見つめながら、ぽつりと言葉をこぼす。

「誰しもがきっと、任意の不公平を抱えているんだって……私はそう思うんです。なんとなくだけど。でも彼が抱えていたそれは、あまりにも、……救いがなかったから。だからせめて、少しでも……」

 そこまで言うと、彼女は躊躇うように唇を結んだ。それから小さく首を振ってから、静かに続ける。

「———彼を否定したくなかった。生き続けるよりは死ぬほうが、ずっと……救われるような、気がしたから。……でも、死んでほしくないなって。そう思っていたのも確かで」

 そう言って困ったように笑う彼女は、やはりどこか痛々しくも感じられた。

 生きることを諦めて自殺を繰り返す『彼』にとっては、死こそが全てから解放される唯一の手段だったのだろう。それでも彼女はそれを受け入れられずにいた。その願いを否定することも肯定することも、友達としてできなかった。

 再び口を閉じた彼女に向けて、私は質問を続ける。

「彼が生き返るのを見たことはある?」
「……一回だけ」

 そう答えてから、彼女は乾いた笑い声を漏らした。
 ひどい日でした、と独り言のように付け加えてから、彼女は続ける。

「何回目、だったかな。……忘れてしまったけど、二回目に会ったのと同じ公園でした。今度は公園にある池の横に、彼はいました」
「その時も、彼は自殺を?」
「いえ。……もっとひどい」

 私が尋ねると、彼女は静かに首を振る。おそらく笑ったのだろう、密やかに吐息を漏らし、掠れた声音の言葉が続く。

「殺してみる? って……当たり前みたいに、彼は私にカッターを手渡しました」