2022/07/10

でいじーかったー2

 2/不発弾

 彼はしばらく考え込んだ様子だった。雨音だけが静かに響く中で、彼が口を開くまでの時間が妙に長く感じられた。私の爪先のあたりに視線が向けられているのを感じながら、私はただ彼の言葉を待つ。

 やがて、ふっと短く息を吐く音が聞こえる。ようやく顔を上げた彼は、どこか皮肉めいた、それでいて楽しそうな……そんな妙な表情をしていた。

「野暮なことを言うけど」
「……うん」
「証拠は?」
「ない……かな」
「自称爆弾? 変なひともいるもんだな」
「信じる?」
「うーん。『あなたがそう言うなら、そうなんだと思う』、かな」

 私が答えると、彼は苦笑交じりにこちらを見る。その様子は先ほどまでの異形じみた雰囲気とはまるで違う見た目相応のものに見えた。そうしてくれている方が安心できるかもしれない。

 冗談めかすようにさっきの私の言葉を繰り返すと、彼はまた小さく笑う。
 信じてもらおうとは思わない。私自信でさえ実感の伴わないことを他人に説明するなんて、何だかおかしな話だし。

「頭のおかしい人と関わりたいわけじゃないんだけどな。僕は普通の人間だからさ」

 こんななりでもね、と付け加えて、彼は肩を竦めて空を仰ぐ。その様子はやっぱりどこか楽しそうで、それが少しだけ嬉しかった。暗い色が揺れていた瞳は、いまは楽しそうに細められている。

「それじゃあ、むしろあなたが僕みたいな見た目であるべきだと思わない? 尋常じゃない見た目。その方がいろいろと便利だし、それっぽいだろ。自分が世界を滅ぼす爆弾だっていうなら、一目で人間じゃないと分かるべきだよ」

 ひとりで切れ間なく喋ったあと、彼は不意に顔を歪める。何かに耐えかねるように、そして自嘲でもするみたいに。

「本当に、うまくできていないよな」
 その表情はあくまで笑顔だった。けれどそこには先ほど見た深い影が滲んでいる。

「……ごめん」
「いや。ただ拗ねてるだけだよ。あんまり気にしないで」

 私がなんとなく謝ると、彼は笑い声と一緒に白い息を吐いた。それから私を見てまた考えるような素振りを見せる。

「証拠がないなら、どうして自分が爆弾だと思うの?」
「……そういう記憶があるから」
「へえ。思い違いだといいね」

 私が言うことを信じてはいないようだった。無理もないと思う。私は実際に証拠を見せることはできないし……私も私自身のことをよく知っているわけじゃない。ただそうであるという記憶があるだけなのだ。

 私が次の言葉を考えているあいだ、彼はじっと私に視線を向けていた。そう長くないはずの沈黙がいやに耳に痛く感じられる。自分自身のことを喋るなんてことはそうなかったから、それが余計に落ち着かない気分にさせる。

「私は……『私たち』がそうだから、としか言えない。最初からそう作られてる」
「生物兵器かなにかなの?」
「その言葉で説明できるなら、そうしていいよ」
「そう。目的は?」
「人を殺すための道具だった。それが必要だった時代に作られたみたい。それから今日まで生き残ってきた私たちは、特に目的もなく野放しにされてて……学校に行ったり、働いたりして普通に人間っぽく生活してる……みたい」
「そういう設定なんだ」
 彼は相変わらず信じる素振りもなく、軽い口調で笑ってみせる。
「それじゃあそのままでもいいじゃない。別に役割を果たさなくても」
「それは……そうなのかもしれないけど」

 彼の質問に答えながら、頭の中では焦りにも似た感覚が生まれてくる。

 自分が何であるかを他人に明かすというのは思っていたよりもずっと大変なことで、何をどう言ったらいいのか全然わからない。私の口から出る言葉はすべてが『そういうものだ』という知識だけ。そこには何の証拠もありはしないのだ。嘘はついていないはずなのに、何か悪いことをしているような居心地の悪さが胸にわだかまる。

 彼の役に立ちたい、とは言わなかった。言うべきではない気がした。
 また言葉に詰まる私を見て、彼は質問を続ける。

「どうしてあなたたちは人間の形をとる必要があったの? ただ人を殺すだけなら、もっと効率的な方法があっただろ。それこそ空から爆弾を落とすとか」
「さあ……。ひとの近くで人を殺すため。人々に紛れ込んでそこで爆発するため、とか。それは私の意思じゃなくて、私たち……私たちを作った人たちの目的」
「それなら人間の形してればそれでよくない? こうして人間みたいに話せる必要ってあるのかな」

 たしかに、と思う。私がこうして人間と同じように思考を与えられたのはどうしてなんだろう。爆弾としての機能を効率的に使うために人間の姿を取ったのだとしても、そこに個人としての意志なんて必要のないはずだった。眠りにつく前のことなんて覚えてはいないけれど……もしかすると、こんなふうに考えることすらできなかったのかもしれない。

 黙って首を傾げるだけの私に、彼はふっと笑った。

「まあ、物騒で悪趣味なやつが作ったんだろうね」
「……そうだね」

 私は言葉を返す。それは事実だと思った。私がここにいるのも、きっと悪趣味な誰かの気まぐれにすぎないのかもしれないなって。それが幸運なのか不運なのかは、今の私には分からないことだ。

「じゃああなたは、それが必要だった昔から今までをずっと生き残ってきたんだ?」
「私は……少し違う。長い間眠っていて、目が覚めたのは最近」
「そう。じゃあ不発弾だね」
「不発弾……」

 彼の言葉を繰り返す。そう言って笑う彼に悪意や侮蔑なんてものは全く感じられなくて、ただ素直に思ったことを言っただけみたいだった。

 不発弾。言われてみればたしかにそうだ。役割を果たすこともできず眠るはずだった『私たち』の中で、こうして目覚めてしまったひとりの兵器。

「ちょうど良い言葉が見つかった?」
「すごくちょうどいい。ありがとう」
「それならよかった。僕みたいなのでも、まだ人の役に立てるんだな」

 勝手に納得している私の心中が伝わったのか、彼は満足そうに微笑むと小さく伸びをした。こんな雨の中で、無機質な明かりの下で楽しそうに笑う彼の姿は、やっぱりきれいだと思った。

 そうして笑っている彼は背中の重たそうな羽がなければふつうの男の子のようで、それでもその奥には明滅するように深い影が見え隠れしていて。それが尚更奇妙に感じられるのだ。私はそれが羨ましかったのかもしれない。名前も事情も何も知らないのに、ここで楽しそうに笑うきれいな人間たる彼に……私は羨望にも似た感情を抱いていた。

「ねえ不発弾。あなたたちはどうしたら起爆するの? 自分を使って死んでくれって僕に言うくらいなら、それくらいは分かってるんだよね。どう?」

 考え込んでいた私の目を覗き込む彼は、期待といたずらじみた表情の入り混じった表情で私にまた尋ねる。
 おそらく私を困らせたいんだろう。私の『設定』を掘り下げて言い淀ませてやりたい、みたいなほんの少しの悪意がそこに感じられた。嫌な気はしなかったけれど。

「ありがちだけど……」
「当ててみせようか?」
「そうしたい?」
「あなたがいいなら」
「いいよ」

 私の答えに、彼はよし、と言って小さく笑う。

「あなたが死んだら。とか、どう?」

 彼の言葉に思わず顔を上げる。濡れた前髪の隙間からのぞく彼の双眸と目が合った。楽しそうな目が一層細まってこちらをじいっと見つめてくる。

「あたりだ」
「そう……だね。心臓が止まったらそうなるみたい」
「あはは、確かにありがちかもね」

 彼の晴れやかな笑い声が耳に届く。雨音の合間に届くそれは、不思議なくらいに心地よく感じられた。素直な反応だなって、そんな気がしたから。

「心臓が止まったらか。へえ」

 言葉を続けた彼は一瞬だけ何か考えるように口を閉じた。それから体を少しだけ前に屈め、何かに耐えるように眉根を寄せる。私がその表情に疑問を持つ前に視界の端で白色が動く気配がして、私は導かれるようにそれに目を向けた。

 彼の翼……垂れ下がって地面に引きずるようにしていた翼が、ぎこちない動きでゆっくりと持ち上がる。

 何をしようとしているのかは分からなかった。それでも私はその一つ一つの所作に縫い留められたまま動けなくなる。光を透かして淡く透けるその白色を、その非現実的な美しい光景を、そして苦渋に歪む彼の表情を……私は、呼吸すらも忘れてただ見つめていた。

 持ち上がった翼はやはり片翼の一部が握り潰されたようにひしゃげていた。羽ばたきはない。ただ薄汚れた羽根から滴る雫の音さえも聞こえそうな静寂だけがあった。

 不意に彼の視線が再び私に向けられる。薄暗い踏切で、その淡い色の瞳と翼だけが輝いているみたいだった。苦しげに息を吐く音が小さく聞こえて、彼はまた疲れたような笑顔を私に向けた。

「……動かせないんじゃなかったの?」
「手足のように思い通りには動かせない、だよ」

 苦しげに歪んだ笑顔のまま、彼は言葉を吐く。絞り出されるようなその声音が、私の奥の方にある柔らかい部分を締め付けるように響く。

 翼を持ち上げてみれば、それはまさしく絵画に描かれる天使のようだった。その翼が不格好に歪んでいようと、彼の表情に重い影がかかっていようと……その姿は美しく、私の目には映ったのだ。

 彼は一度そこで言葉を切ると、小さく息を整える。私は黙って次の言葉を待った。

「自分の意志ではできないわけだ」

 一瞬彼の翼の話かと思って……先ほどの話の続きだと理解する。どうにか思考を戻そうとしても、視界にちらつく白色が私の思考を奪うようで。私の考えていることを知ってか知らずか、彼は言葉を続ける。

「自分の意志では爆発できないのに、人を殺すための道具ねえ。それってあんまり効率良くないんじゃない? 的確なタイミングで起爆することもできなそうだ。そもそも効率よく殺すためのものではないのかな」

 そこに私の返事を待つ様子はなく独り言のようでもあって、私はそうだね、とただ相槌を打つことしかできない。

「やっぱりあなたたちを作った人はとんでもなく悪趣味なんだね」

 彼の顔に浮かぶ笑みはどんどん深くなるばかりで、それがひどく痛々しく思えて仕方がなかった。逃げるように彼の顔から視線を外すと、薄汚れた白い翼から水滴が落ちるのが見える。その雫を目で追っているうち、翼がまたわずかに動いたような気がした。

「不慮の事故なんかで死んだら大変だね? たとえば車に轢かれるとか……まあ、それは車の爆発で片付くのかな」
「そういう個体もいたみたい。不幸な爆発をした個体。でも私たちの数はそんなに多くはないから、きっと普通の人間が事故に遭うほどは……ないんだと思う」
「へえ」

 気のない返事をして、彼の翼が再び地面に落ちる。糸が切れたように地面に垂れ下がるそれを眺めていると、彼は背中をさすって大きく息をついた。不満げに息を漏らしながらまた空を仰ぎ、ほとんど溜息みたいに言葉を続ける。

「どうにかならないかな、これ。動いても動かなくても痛いんだ。寝てると少し楽」

 だから先ほどまで地面に転がっていたんだろうか、なんてことを考えながら彼を見つめる。私が何か返す前に、彼は口を開く。

「もっと当ててあげようか」
「……うん」
「あなたは誰かに起爆してほしいんだ。それで僕を利用しようとしてる」

 違う、とは言えなかった。そこまで考えてはいなかったというのが正直なところだったけれど……それでもその言葉は妙に私の心にしっくりと収まった気がした。言葉を返せない私を見て、彼がまた皮肉めいた笑みを浮かべるのが分かる。

「あなたはどうして爆弾の役割を果たしたいの? それが僕の役に立つから?」
「そう、かも」
「あはは。なるほどね。可能性はあるかもしれないけどさ。あなた自身はどうしたいの」
「……」
「あなたが役割を果たしたいの? それともそう決められているからそうするだけ?」
「……それは」
「あなたは役割のためなら命なんか投げ捨ててもいいって思ってる? 役割のために死にたいの? ねえ、教えてよ」
「……わからないよ」

 彼の口調はあくまでそれまで通りの軽い口調だ。それでも投げかけられる問いは詰問に近い感じがした。不安定に揺れる瞳はまっすぐにこちらを見つめている。心の奥底を穿つような真っ直ぐな視線。

 どう答えたら彼が納得するのか分からなかった。彼は私に何を求めているんだろう。

「まあ、分からないよな。役割しかない兵器には」
「兵器には……」
「あなたがそう言ったんだろ」

 そう言って笑う彼の表情は、私というよりも自分自身を嘲笑っているように見えた。彼の言う通りだと思った。彼の言う通り……私には何もない。自分自身がどうしたいかなんて今の私にはありはしなかった。

「あなたは僕を利用して自分だけが楽になろうとしてるんだ。違う?」
「……そうだと、思う」
「あなたが死ねればそれで終わりだもんな。あなたを殺した僕が死ねなかったとしても」
「……」
「それは怠惰だよ、あなたの」

 彼はまた雨粒を拭いながら、こちらから視線を外す。彼の声は、強まってきた雨音の中でどこか虚ろに響いた。その横顔は相変わらず淡く微笑んでいて、ここではないどこか遠くの方を見ているようだった。それから視線だけでこちらを見た彼は、私の顔を見てふっと息を吐いた。

「普通の人間に、さあ……酷なこと言わないでほしいんだけどな」

 その口調は楽しげで、それでもどこか陰りを帯びていて。雨に打たれながらそうして笑う彼に、私は何の言葉を返すこともできなかった。

 彼はしばらく何も言わなかった。私も黙って彼の様子を窺う。雨水が地面を叩く静かな音だけが耳に入る。やがて彼は小さく息をつくと、目を細めて空の方を見上げた。重苦しい色だけがそこにあった。

「やっぱりあなたは普通の人間じゃないね」

 そのまま首を竦めて身震いをして、彼は踏切横の鉄柵に腰掛ける。寒さのせいでまともに体も動いていないようで、ほとんど崩れ落ちるような動きだった。ゆっくりと呼吸を整えてから、翼を掴んで適当に後ろに放り投げるように動かす。翼は力無く地面に落ちた。怪我してしまいそうだ。しても気にしないのだろうけど……。

「当たり前に生きてたら、人を殺すことなんてできないんだ」
「自殺はできるのに?」
「そうだよ。全然違う」
「……そっか」

 隣に座っていいか尋ねると、彼は頷いた。私が座るのを見届けたあとで、思いついたようにこちらを向いて微笑む。

「あなたは普通になりたい?」
「……あんまり。なれないと思うし」
「そう。僕はなりたいよ」

 彼はこちらから視線を外すと、そのままじっと遠くの方を見る。彼はそう言ったけれど、ぜんぶ諦めているみたいに見えた。雨雲に覆われた灰色の空を見上げる彼は、目を離したら消えてしまいそうで。

「あなたは自分が爆弾かどうか証明できないんだろ? もしあなたが嘘をついていたら? あなたは無駄死にだし、僕は無駄殺しだ。あぁでも、あなたをひどいやり方で殺したら死刑になるかな。二週間くらいは話題になれそう。殺しても死なない凶悪殺人犯。しかも変な羽がついてる、なんてさ! 」
「……死ぬことに結び付けるの、得意だね」
「いつもやってるから。それくらいしかやることもないしね。連想ゲームだよ」

 自嘲ぎみに笑うと、彼はそのまま言葉を切る。私が視線を向けると、彼はまた少し笑って見せた。今度は皮肉げな感じはなくて、ただ笑っただけのようだった。

「一人でできそうな死に方はだいたいやったよ。飛び降りとか飛び込みとか、あと手首を切ったり首を吊ったり、薬を飲んでみたり。一回だけ同居人に手伝ってもらったこともあったな。でもひどい顔させたから、もうやらない」

 なんてことさせるんだろう、この人は……。私の心中を察したのか、彼はまたふっと息を吐く。その表情はあまりにも無邪気だった。

「普通の人間は、自殺を手伝わせたりしないと思うけどな」
「あはは、確かにね」

 軽やかな笑い声のあと、その声の響きが低く落ちる。

「でも僕の同居人は普通じゃないから。そういうやつに提案するなら別にいいだろ。僕が提案したとして、それを飲むか飲まないかは相手の自由だし」
「そういうものなの?」
「僕の中ではそうだから、それでいいんだ」

 彼はそう断言しながら、翼に手をやった。表情の消えた顔で翼を眺めながら、指先で水滴を弄ぶ。笑顔でないときの彼はひどく静かで、精巧に作られた人形を見ているかのような底知れない不気味さを感じた。彼の言葉をどこまで信じていいのか分からない。全てが彼の言う通りなのか、それとも私を弄んでいるだけなのか。

 それから彼はまた首を振って雨粒を払うと、ぱっと明るい笑顔を浮かべた。

「同居人には二回殺されたんだけどさ。一回は自殺の手伝い。これ、羽を包丁で、こう……削るみたいに。あぁ、思い出すだけで痛い」

 羽に刃物を突き立てるような仕草をしながら、笑みを深くした彼は私を見る。そこに無理をしている様子なんてものはまるでなく、完璧に自然な笑顔、みたいに見えた。まるで別人みたいにくるくると変化する表情の真意を、私は理解できないままでいる。私はその瞳の奥にあるものが何なのか分からないままに見つめ返すことしかできない。

 愉快そうに語る彼は、私が何を考えているかもきっと分かっていた。それでも彼は話を止めなかった。

「まだ諦めきれてなかった頃かな。羽を捥げってお願いしたんだよね。羽の大きさは今の半分もなかった。もう背中の肉ごと削り取る勢いでやられて……って、僕が無理やりやらせたんだけど。本当、あれは死ぬほど痛かった! 同居人も無理やりやらされてかなり参ってたし」
「……羽、取れた?」
「さあ? 僕はその前に失血かなんかで死んだからね」
「そう……」
「さすがに同居人の機嫌を損ねちゃって、生き返ってからしばらく口を聞いてもらえなかった。だからどうなったかは知らないや」
「……ひどいことやらせるね」
「ひかないでよ」

 困ったように眉を下げる彼を見ながら、私も小さく溜息をつく。

「普通は頼まれてもそんなことできないだろ。でもやってくれたんだ」
「同居人のひとに、ちょっと同情する」
「あはは。僕たち似た者どうしじゃない。自分を殺せなんて頼んでくるんだから」

 苦笑する彼を眺めながら、ぼんやりと考える。私が彼に同じことを頼まれたとして、はたして実行できるんだろうか。……たぶん、できないと思う。もしかしたら私が彼に言っているのはそういうことなのかもしれない。

「……普通じゃない私と似た者どうしでいいの?」
「まあ、そうだね。でもあなたは僕よりももっとひどいよ」
「私はそういうつもりはなかったんだけど……」
「同じだよ。結果が同じなんだから」

 青白い顔に浮かぶ子供のような笑顔は、無邪気といっていいのか……それとも、別の何かがあるのか。少なくとも悪意は感じられないけれど、それがかえって怖くもあった。彼の表情はくるくる変わっているようで、実は何も変わっていないんじゃないかという気がして。
 彼はまた遠くの方に目を向ける。少しの距離の向こうで暗闇と雨音に沈む街を眺める彼の目はどこか暗い色を湛えていて。私たちのあいだには途方もない隔絶があるみたいだ。黙ったままの彼に、私は尋ねる。

「背中ごと削り取る勢いで、って……血とか、どうしたの?」
「さあ? 起きたらきれいになってたよ。そもそもあんまり血とか死体とか気にしなくてもいいんだ、僕の場合は」

 どういうことだろう、と思って彼を見ると、彼はこちらに視線を戻してまた笑った。

「体がひどく壊れたり血が出たりするような死に方をしたときは、起きるとあたり一面羽まみれになってるんだ。飛び降りをしたときはひどかった、布団一枚丸ごとぶちまけた、みたいになっててさ。死ぬときに羽に変わってるんじゃないかな? 僕だった血とか肉とかさ。詳しくは知らないけど……そこそこ便利な仕様だろ」
「便利っていうか、……なんていうか」

 私の曖昧な反応に、彼は明るく笑い声を立てる。彼は平然とそれを話してくれるけど、それはやっぱり異常なことなんだろう。そして同時に、私はこの人を異常だと思いたくはないな、と思った。

「もし、」
 彼の目が私を覗き込んだ。

 そこに浮かぶ微笑みの温度が一気に下がるような錯覚を覚え、私は思わず息を飲む。冷気が首に手をかけるように、鋭い冷たさが喉元を締め上げる。

「もし一回だけ死にたい人間がそういう仕様だったらさ」
 それが普通か、と付け加えて、彼は力なく笑う。

「きっと死ぬ人が後を絶たないね。どんな死に方をしようが、本人が死んだあとそれを片付ける人は必ずいる。それを気にして死ねない人ってたくさんいると思うんだよね。でも、死んだあとに跡形もなく消えられるとしたら? きっとそれが一番理想的な死に方なんだと思うんだよね」

 彼はそこで言葉を切って、視線を足元に落とす。雨に濡れて街灯の光を映すアスファルトを睨む彼の顔からは、または表情らしいものが抜け落ちてしまっていた。私はその横顔をじっと見つめることしかできない。

 彼の言うことは分かる気がする。死んだ後に何も残らないとしたら……死んだあとのことを考える必要がないのなら、きっと人はもっと楽に死ねるんだろう。でも……だからこそ、彼は自殺を繰り返してしまうのだろう。

 彼が何を求めてこんな話をしているのか、何を言っていいのかもわからない。ただ何の言葉も返せないまま、隣にいるだけの時間が続く。

「今まで僕が死んだ回数分、死にたい人に僕の『性質』を譲ってあげたいよ!あぁ、本当に……本当に、あるべき場所にあるものはないんだ」

 吐き出すような彼の声が、白く凍っては消えていく。私は彼を見る。その目に何が映っているのかを理解するのはやっぱり難しい。それでも、いま目の前にいる彼がその笑顔の奥底に途方もないほどの苦痛を抱えていることだけは分かった。

 私は自分の手をそっと握ってみる。私が自分の役割を正しく果たすことができたのなら。それを彼に認めてもらえたのなら……彼は、少しでも救われたりするのかな。

 ……いまはわからない。役割の他には何もない私なんかの手が届くのかなんて。

 しばらくの沈黙が続いてから、彼は小さく鼻を鳴らして勢いをつけて立ち上がった。錆びついたフェンスの上げる悲鳴が雨に沈む路地にいやに大きく響く。雨の中に立つ彼を見上げる。彼はこちらを振り返った。青白い頬に流れる水滴は、背後の電灯の光を受けてきらめいていた。

「帰るよ。寒くてだめだ。……あなたを使うかどうかは、また考える」
「また会える?」

 私が思わずそう返すと、彼は一瞬だけ気抜けしたような顔をした。それからすぐに笑顔に戻って答える。

「こんなに長く同居人以外と話したのは久しぶりだった。僕はこうして深夜に出歩く以外は引きこもってるから……楽しかったよ。あなたはとても変な人だけど、だからかな。話し相手が見つかってよかったよ。あぁ。外に出てみるのも悪くないね。何度も死んでみるものだ!」

 少し早口でまくし立てると、彼は濡れたシャツの裾で手を拭う。たぶんあんまり意味はなかっただろうけど。彼は顔をあげてこちらを見た。

「僕はこんなだから深夜にしか出歩けないけど……あと、ちょいちょい死ぬけど。それでもいいなら。あなたが爆弾で、僕に自分を使ってほしいのなら」

 彼はその濡れた右手を、私に差し出した。

「友達になろうよ。なってくれないかな。……そう、お友達から始めよう!」

 明るい声は、雨音の間を通り抜けてまっすぐに私の耳へと届く。私に向けられる瞳は、いまは凪いだ水面のように穏やかで柔らかな色を帯びていた。

 あぁ、きっと。私が羨ましいのは、彼のこういうところなんだろう。

 私は少しだけ面食らったけれど、私は拒む理由もなくその手を取った。その手は長い間雨に打たれていたせいで恐ろしいほどに冷たく硬く、それでもたしかに生きている人間のそれだった。そう、思った。

 私はゆるく手を握り返す。そうすると彼もその手の力をわずかに強めて、よろしく、と嬉しそうに目を細めた。彼の冷たい手の下にある感覚を感じながら……私はその笑顔から目を逸らす。彼の目をまっすぐ見ることができなかった。それはあまりにも透明で、何もない自分を覗き見るような気分になったから。
 
 私はただ、友達という言葉と自分の役割について、ぼんやりと考えていた。