1 / 踏切
最初に彼と出会ったのは、夜の踏切だった。ひどく冷え込んだ日の深夜。午前三時の空は鈍い灰色をしていて、星ひとつ見当たらない。吐く息は白く濁り、傘を叩く雨音だけが小さく耳に届く夜だった。
その時の私は長い眠りから目覚めたばかりで、まだ現実とうまく向き合えていなかった。用意された肩書きや物語はある。でも、それに相応しい振る舞いをする気にはなれなかった。毎夜そっと自分の家を抜け出し、当て所なく夜の街を歩くだけ。そうしているうちは自分の中に渦巻く感情のなり損ないたちから目を逸らすことができた。いつも通りに暗い通りを歩いて、明け方に戻るだけ。それだけのはずだった。
彼は、ごく当たり前のようにそこにいた。
住宅街の外れにある人気のない踏切が視界に入るのと同時、私は視界の端になにか白いものを見つけた。最初はゴミか何かと思ったのだけれど、すぐにその傍にいる……というか、仰向けに倒れている人間が目に入る。幸いその人はまだこちらには気が付いてはいないようだ。
声をかける、べきなんだろうか。でも何て? どこの誰かだって分からないし、どうしてこんな時間にこんな場所にいるのかも分からないのに。でも、あんなふうにしていて車に轢かれてしまわないだろうか、とか、ただ体調が悪くて倒れているんじゃないかとか、この寒さであのまま放っていくわけにはいかなくて……そんなことを考えて立ち尽くしているうち、視界の端でゆっくりと白い影が揺れる。
私は、それに導かれるように顔を上げる。彼の顔がゆっくりとこちらを向いた。
暗闇の中で、私たちの視線はたしかに交差する。
「誰?」
それは小さな、しかし暗闇を射貫く光の矢のような、よく通る明るい声。温い微睡みの薄氷を破るような柔らかな透度を持つ声が、確かに私の鼓膜を震わせる。
聞きたいのはこっちなのだけれど……私は言葉を返さずにそこにいる人影に近づく。私が歩み寄ると、その人影はだるそうに上半身を起こした。前髪の隙間から無遠慮な視線が私を覗き込み、思わず身を強張らせる。
高校生くらい、だろうか。少年と青年の間にあるような不思議な雰囲気だった。背後の電灯の明かりの影になってはっきりとは見えなかったけれど、それでもその表情が笑顔であることだけは分かる。彼はぱっと首を振って目元にかかった前髪を払う。細やかな影が端正な顔立ちの上で揺れるその光景は、ひどく現実離れした光景のように見えた。
「こんばんは」
その人は笑う。口元は緩んでいて、影のかかっている瞳は好奇心の色に染まっていた。
「……こんばんは、」
私が答えると、彼はまた楽しげに目を細める。
「こんな時間に外を歩いてるなんて、きっとあなたはまともじゃないんだろうな」
「そうかも。……轢かれるよ」
彼はちょっとだけ首を傾げて、それからまた笑う。子供みたいな表情をする人だな、とぼんやりと考える。
「それならそれで。こんな時間に電車も車も通らないと思うけど」
そう答えると、彼は大きく息を吐いた。白く煙る息が空中に消えていくのを眺めたあと、肩を竦めて身震いをする。無理もないだろう。地面から迫り上がるような凍てついた夜の中で彼は長袖のシャツ一枚で、しかもずぶ濡れだった。それほど雨は強くないのに、一体いつからそうしていたんだろう。
「寒くないの?」
「寒いよ。当たり前だろ」
私の問いかけに拗ねたような声で即答すると、彼は座ったままでこちらを見上げる。濡れた前髪の隙間から覗く瞳は琥珀のような淡く複雑な色できらめいていた。それから、私の表情を見た彼はわずかに眉を顰める。そして小さく溜息をつくと、子供みたいな悪戯っぽい表情で私を覗き込んだ。
「化け物でも見たような顔をしているね。僕はふつうの人間なんだけど?」
彼への返事は、うまく声になってはくれなかった。自分の目が映しているものが私には理解できなくて。どうして彼がこんな時間にこんなことをしているのかは分からない。その口調には嘘も悪意も感じられなかったし、彼は自分がいう通りふつうの人間、みたいに見える。ある一部分を除いては。
私は尋ねる。夢の中に引き戻されたような奇妙な感覚が脳の奥でざらついていた。
「それ……本物?」
「本物だよ? ろくに動かせないけどね」
私の言葉に、彼は軽く返す。何を言われるのか分かっていたみたいな態度だった。
柔らかく目を細める様子はやはりどこか異界の生き物じみた印象があって、それが私の言葉を奪い去ってしまう。
上体を起こしている彼の背中にあるのは、白い翼だった。
先ほど遠くから見えた白色の正体は、どうやらこれだったらしい。薄汚れてぼさぼさになり、重そうに雫を垂らしているそれは、それでも翼としか表現できないものだった。造り物には見えない。両腕を広げたくらいの大きさのそれは羽ばたくこともせず、重力に逆らうこともまるでなく、ただ重そうに地面にへばりついている。
私はどうしてそんなものが生えているのかも理解できないまま、ただ見つめることしかできなかった。何も言えずにいる私を見て、彼は大きく溜息をつく。白く凍った息が空中に漂い、私の眼前で消えていく。
「人間の体はこんなものを動かせるようにはできていないんだ。残念だよね」
彼は一瞬だけ背中の方に視線をやって不満そうにそう漏らすと、またこちらに視線を戻す。こちらを見定めるかのような視線に心の奥のほうを見透かされたような気分になって、私は思わず後ずさりしそうになった。
彼はそのまま私に問いかける。柔らかく冷たい声色が頭の奥の方に響く。
「あなたには、僕が何に見える?」
「……、」
私は、何の言葉も返せない。
彼はふっと目を細めた。先ほどとは違うどこか疲れたような笑顔が、端正な顔に淡く浮かぶ。その笑みは顔立ちに反してひどく大人びているように映った。
「したいように表現すればいいよ。信じないならそれでいいんだ。夜中に造り物を背負って歩き回ってる頭のおかしい奴でも構わないし、『天使』とか言われたこともあるよ。こうなってからはろくに人と話したことなんてないんだけどさ」
そこで彼は一度言葉を切る。少しだけ言葉を選ぶような沈黙を挟んだあとで、溜息交じりにまた笑う。今度はさっきみたいな無邪気さの滲む笑顔だった。
「まあ、人間には違いないよ」
その言葉の響きはどこか投げやりにも聞こえたけれど、あえて問いただすようなことはしなかった。言いたいことはぐるぐると頭の中で回っている。でも、私は目の前で笑顔を向ける彼に、素直に思ったことを口に出すことにした。
「天使……みたいだね」
「そう。あなたにはそう見えるんだね」
彼は興味なさげに短くそう返す。それからまた小さく肩をすくめてみせる。その仕草はやっぱり見た目相応の仕草にも見えたし、それがどこか不自然にも感じられた。
まだ彼の翼から視線を外せずにいる私に気が付いたのか、彼はぎこちない動きでそれに手をやる。指先でそっと撫ぜるように触ると、ぐったりと垂れていたはずの薄汚れた翼は小さく動いた気がした。口元をかすかに緩めた彼と視線が交差する。
「呪いって言ったら納得する? 本当に生えてるんだ、これ。ありえないよな」
軽く笑い飛ばすその声は不自然に明るく、どこか馬鹿にしているかのような響きすら帯びていた。彼の表情は相変わらず楽しげに映るのに、その奥底にある冷たさに胸の奥がざわつくような気配を感じる。
私は、この人にどんな言葉を返したらいいんだろう。私は自分が今どんな顔をしているのかも分からないままで口を開く。
「理解はできないけど……あなたがそう言うなら、そうなんだと思う」
「そう。だとしたら相当頭がおかしいと思うよ。僕が言うのも変だけど」
「見てしまったものは……信じるしかないし」
「おかしいのは否定しないんだ?」
「……お互いさま、だから」
「へえ。変な人なんだね」
笑顔のままで嫌味のない言葉を投げかけられて、私はまた口を噤んでしまう。ただぼんやりと視線を返すことしかできない私を見た彼がまた笑って、白い吐息が小さく舞う。
「で、あなたはこんな時間に何してるの?」
不意に質問されて言葉に詰まる。何て答えたらいいんだろう。
明確な目的なんてありはしないのだけど……。
考え込むうちに時間だけが過ぎてゆき、彼は何も言わずにただ私の返事を待っている。
「……散歩かな」
「そう。本当は?」
畳みかけるように彼の質問が続く。嘘はついていないはずなのに、彼の子供のように無遠慮な質問はまるで尋問でも受けているかのような気分にさせた。
「散歩は嘘じゃないけど……私の役割のため」
「へえ。何かやらなきゃいけないことがあるんだ?」
「そう」
「何をしなきゃいけないの? 深夜だから……死体隠蔽とか、殺人とかかな」
「……そう、かも。人を殺さなきゃいけない、みたい」
「へえ。大変だね」
彼は特に驚きもせずに地面に手をついてゆっくりと立ち上がった。水滴を払う姿はやっぱりどこか現実離れした美しさがあって、私はそれをぼんやりと眺める。月明かりと電灯の青白い光を背負った彼は、やっぱり『天使』と表すのが適切だろうな、と思った。
「……通報とか、しないの」
黙って水滴を落とす彼にそっと声をかける。彼は一瞬だけこちらを見ると、また小さく笑い声を立てた。表情は相変わらず笑っていたけれど、その瞳は私を見透かすように透明な色でこちらを見据えている
「線路で寝てる不審者が不審者の通報してもね」
「不審者って自分で分かってたんだ」
「そりゃ不審だろ。あなたも話しかけるかしばらく迷ってただろ」
「……うん」
「じゃあ同じだよ。お互い見なかったことにしよう。ここだけの秘密だ」
彼が笑うたび、背中の翼が揺れる。暗い夜の中で青白い明かりに照らされたそれは、薄汚れていてもなお不気味なほどに白く輝いて見えた。
彼はまた一つため息をついて私の方を向く。小さな問いかけが、確かに私の耳に届く。
「僕のこと、おかしい人だと思った?」
「……あんまり」
「そう。僕はあなたのことおかしい人だと思ったけどね」
私が素直な気持ちを答えると、彼は悪びれもせずにそう返した。あまりにあっけらかんとして言うから、嫌な感じはしなかった。私もつられるように少しだけ口元が綻ぶ。
彼は私に向き直ると、少しだけ真面目な顔をしてまた問いかける。
「あなたは人を殺したいの? おかしい人?」
「わからない。……でも、そうしなきゃいけないみたい」
「へえ。意味不明だね。さっきからそればっかりだ」
「……それは、」
私は言葉を探す。どう言えばいいんだろう。自分を表現する言葉が見つからなかった。言い淀んでいる私を見て、彼はそのままの軽い口調で続ける。
「僕を殺してくれてもいいよ? どうせ僕は死ねないから」
「死ねない?」
私の問いに、彼はすぐに答えを返さなかった。彼はシャツの袖で顔に伝う水滴を拭う。袖も濡れているから大して意味はなさそうに見えた。
彼はまっすぐに私の目を見る。
そこに浮かんでいるのは、ぞっとするほどに冷え切った微笑みだった。
「生き返るんだ」
「……どういうこと?」
彼の言葉が理解できず、私は問いかける。心臓の奥を刺すような冷たい微笑みは瞬きの後には消え去っていて、そこにあるのは人の好さそうな笑顔だけだった。
「そのままだよ。だから死ねる方法を探してるんだよね」
世間話でもするかのように淡々とした彼の声は、白く霞んでは空中に消えていく。私はその言葉をうまく飲み込めないままに視線だけを返す。彼は言葉を続ける。
「僕は自殺をしてるんだ。どうやったら死ねるのか考えたり、実行したりしてるんだよね。人目につかないように、こういう時間に。今日はただの散歩だけどさ」
この人は、何を言っているんだろう。わけが分からず彼の顔をじいっと見つめると、彼は「そんな顔しないでよ」とまた軽やかな笑い声を上げた。その様子にどこか諦めじみた感情が見えた気がして、私は彼の前髪に見え隠れしている目を覗き込む。ただ静かな色を湛えた瞳がこちらを見返す。
「自殺……失敗してるの?」
いや、と応える彼の表情に一瞬だけ影が落ちる。それからすぐにさっきみたいな笑顔が浮かび、また軽い口調で言葉を続ける。
「成功してるよ、全部ね」
彼はゆっくりとそう言ってから、黙ったままの遮断機を見上げて溜息をついた。
「もう何回になったかな。数えてないから分からないけど。思いつくことは全部やって、全部成功した。ちゃんと死んでるんだよ、毎回」
その微かな吐息も、雨音の向こうに消えていく。遠くの方で車の走る音が低く鳴っていた。少しの沈黙のあとで彼はもう一度小さく溜息をつくと、またこちらに顔を向ける。彼の背中側から照らす踏切の明かりのせいで表情はよく分からなかった。
「ええと……じゃあ、幽霊なの?」
「人間だって言ってるだろ」
「よく分からないよ」
「僕だって分からない。でも現実なんだ。あんなに痛くて苦しかったのに夢だったらたまらないよ」
呆れたように彼は言う。それでも私の反応が楽しいのか、彼の声色だけはどこか嬉しそうだった。それがどうしてなのか私には分からない。今の私にわかるのは、どうやら彼が楽しんでいるということだけだった。
彼は何も言葉を返さない私にちらりと視線を向けると、そっと目を閉じる。白熱色の明かりに照らされた長い睫毛がきらきらと輝いて見えた。
「生き返るんだよ。死ぬと目が覚めて……そうすると、これが育つんだ」
彼の言葉に導かれるように、私はその背中にある白い翼に目をやる。
雨に濡れて薄汚れ、くたびれたような歪な形をした翼。それはぴくりとも動かずにただそこにあるだけだった。彼はゆっくりと目を開けると、視線だけをこちらに向ける。
「羽が育つって気が付いたのは最近。でも気が付いたってどうすることもできない。普通に戻れるはずないから。だから自殺を続けるほかになくてさ。そうしてたらいつか死ねるかもしれないから。まあ……死ねた試しはないけどね」
そこで一度言葉を切ると、今度はこちらに顔を向ける。橙色の光を背負った彼は、どこかぎこちなく笑顔を作った。その表情を見ていると、どうしてか心臓の奥の方が締め付けられるように苦しくなる。
彼の言葉は、私にはよく理解ができないことばかりだ。死んでも死ねない人間なんて……そんなことあるんだろうか。とても信じられないことではあったけれど、それでも不思議と彼が嘘を言っているようには思えなかった。
どうしてさっき初めて会っただけの私にそんな話をするんだろう。
この人はほんとうは何を言いたいんだろう。
私の中にはいつしかそんな考えが広がっていた。それは……初めて抱いた類の感情だった。
私は笑顔を貼り付けたままの彼に視線を返す。彼もぱっとこちらの目を見て、微かに目を細めたようだった。
「どうして死にたいの?」
「生きてても仕方ないなって感じ。細かいことは忘れた」
「……そっか」
私の問いに答える彼の口調はあくまで軽く、その表情に陰りは見えない。今の彼の浮かべる笑顔は、完璧に自然なものだったと思う。ずっとそうしてきたみたいに。
「そんな深刻なことじゃないんだよ。もう慣れたから」
何を返したらいいか分からずに俯く私を見て、彼はまた小さく笑い声を立てる。そうして笑う彼の感情に嘘はないように思えて、私は安堵にも似た感情を覚えた。
「ああ、服がまともに選べないのは困ってるかな。はじめは服を着てしまえば隠せるくらいの大きさだったんだけど……今はこんなだし。こうなるまで死ねなかった。この服は同居人が改造してくれたんだ」
そう言いながら彼はこちらに背中を向ける。シャツの背中は羽を通せるように特殊な開きが施されていた。隙間から見える彼の背中に痛々しく皮膚が引き攣れたような痕があるのが見えて、私は思わず目を逸らしてしまう。今見たものを頭から消し去るように、私はまた彼に言葉を投げかける。
「誰かと住んでいるの?」
「住んでいるというよりは……そうだな、僕が勝手に出入りしてるだけ。帰ってこなくなったら死ねたと思っておくから、それでいいって」
「……いい人なんだね」
「そうかな? ひどい奴だと思うけど」
あはは、と密やかな笑い声が私の耳に届く。雨音を挟んだ向こうにあるそれは確かに明るく響いたけれど、どこか乾いているようにも聞こえた。
ふと思い立って、私は自分の手に握っていた傘を差し出した。振り返った彼は拍子抜けしたような顔をすると、私の顔をまっすぐに見つめ返してくる。その目は確かに笑顔の形に細められたままなのに、その奥にある瞳はこちらを射貫くように冷たい。息が詰まるような感覚を覚えながら、私はどうにか言葉を続ける。
「見てる方が寒いから」
「ああ、そういうこと」
彼はようやく理解ができたように短く声を上げる。氷が溶けるように、彼の瞳を満たしていた暗い色が消え去っていく。
「親切な不審者だな。でもいいや。今更って感じだし。ありがとう」
「……そっか。風邪には気を付けてね」
「うん。あなたもね」
行き場を失った右手を降ろして、私は彼から目を逸らして空のほうに目をやる。踏切の向こうには雨雲の垂れ込めた重い色の空が広がっているだけだった。
それからまた少しの沈黙が落ちる。彼は何か考えているようだった。私は何も言わずにただ彼の言葉を待つ。やがて彼は空を大きく仰ぐと、また一つ溜息をつく。
「風邪か。いいね。風邪が重症化したら死ねないかな。何か重篤な病気にでも罹れば僕でも死ねるかもしれない。それは試したことないな。難しいよね、病気って自分の意思ではできないからさ」
「……病気、苦しいと思うよ」
「あぁ、確かに。苦しいのは嫌だな。痛いのも」
彼は笑う。私はそれに何の言葉も返せなかった。どうしてそんなに死にたいんだろう。痛いのも苦しいのも嫌なのに、そんな普通の感覚をまだ持っているのに……それでもなお死に続ける理由が、私にはまだ分からない。
でも、不安定に翳る彼の表情を見ていると、なんとなく想像できるような気もするのだ。死ぬために死のうとしているんだろうなって。彼のことは何もわからないけれど、その方が納得がいくな、と思った。
私はもう一度路地の奥に澱む雨雲を見上げる。降り注ぐ雨粒が傘を打つ微かな音。私は手に持った傘をそっと閉じた。細かい雫が頬に当たる感覚がする。
彼は何か言いたげにこちらに視線を向けたけれど、何か言葉が返ってくることはなかった。ただ黙ってこちらに目線を向ける。何の感情の感じられないその顔がまっすぐにこちらを捉える。
それからすぐに彼は視線を逸らして、また何か考え込むように沈黙した。その横顔を盗み見る。ここでこうして出会ったばかりの彼に抱いている感情に、どんな名前をつけていいのか分からない。
いつからそうしているのか、これからどうするつもりなのか。尋ねたいことはたくさんあったけれど、彼はきっと答えてくれないんだろう。
ややあって、彼はまた身震いしたようだった。視線を向けると青白い顔がこちらに向いて小さく笑う。もともと白い顔はさらに一層血色を失っているように見えた。
「帰るよ。寒い」
「あ……待って」
考え込んでいる私をよそに立ち去ろうとする彼を、思わず呼び止めていた。私自身がそれに驚いた。次の言葉も思い浮かばないまま、私はただその背中に言葉を投げる。
一度背中を向けた彼は、不思議そうな顔で振り返った。私を映す淡い色の瞳が微かに揺れ、私を透明な視線で縫い留める。
彼とまた出会えるだろうか。このまま別れてしまうのはいやだと思った。そうしたらきっともう二度と出会うことはない気がして。だから私は咄嗟に言葉を紡いでいた。もしかしたら彼の力になれるかもしれない。こちらを見る彼に、私はどうにか言葉を探し出して投げかける。
「もし良かったら、だけど」
「うん?」
「あなたが死ぬために、私を使ってくれたり……しないかな」
私の言葉を聞いた彼は、もう一度私に正面から向き合った。それから彼は私の顔を覗き込む。推し量るような視線が私に向けられる。それはあまりにまっすぐで、私は胸の奥の方が冷えるような奇妙な感覚を覚えた。すぐそこで鳴っているはずの雨音がいやに遠く響くような気がした。
「それは、あなたの役割のため?」
ぞっとするほどに冷たい声音。畏怖にも似た感情を覚えながら、私はどうにかその目を見返して声を絞り出す。
「……そう」
「自分なら殺せるって自信があるんだ」
「それは……ない、けど」
「僕は他人に殺されたこともあるよ」
「それでも死ねなかった?」
「見ての通り」
「そう。でも……」
「でも?」
私は口を噤む。私の役割……私がここにいる意味。彼は本当にそれを理解してくれるだろうか。信じてくれるのだろうか。この冷え切った色の瞳の前でそれを語ることがひどく恐ろしいことのように思えた。
……でも。私はここでそんな目をしている彼に、言わなければいけないと思った。私は言うべき言葉も定まらないままに唇を無理やり動かす。
「私、私は……人間じゃないから」
「え?」
彼の表情が変わる。驚いたようにその瞳が見開かれ、その中で繊細な光と影が揺れる。
私は、頭の中にある自分の役割を口に出す。名乗ることにほんの少しの躊躇いを覚えた。実感がなかったから。唇から紡がれたのは、笑ってしまうくらいに情けなく震えた声だった。
「世界を滅ぼす、偉大な爆弾……」
実感を伴わない言葉は、それだけが空虚な響きで宙に消えていった。彼は一瞬だけ呆気に取られたように動きを止め、半笑いみたいな表情を浮かべる。
「……はあ?」
彼の反応は、ほんとうにごく普通の人間みたいで。
そんな彼を見ながら、私は心の隅でよくわからない安心を覚えていた。