でいじーかったー
2.5 / 昏迷
「生きることが、途端に意味のあることみたいに思えた」
相変わらず顔は上げないままで、彼女はぽつぽつと話を続ける。私は俯く彼女を見ながら相槌を打つ。今日は珍しく天気が良く、小さな窓の向こうには能天気なまでに明るい午後の青空がある。
「友達になったんだね、その彼と」
「はい。……おかしな話だと思います。私が爆弾だなんて信じていなかったくせに……ううん、信じてたのかな。もうわからないけれど……でも、私のことをおかしい人間だと思っていたとしても、それでも彼は友達になろうって言ってくれた」
「それから彼とは会うようになったの?」
私の問いに、彼女は小さく頷く。それからふっと吐息だけで笑みを零した。
「考えてみたら、そんなに回数は多くなかったのかもしれません。名前も知らないままだった。会うのはいつも深夜で、いつも偶然みたいに会って話すだけで。それでも、私にはあの時間が……限りない価値でした。限りなく価値のある、時間でした」
彼の役に立ちたかった、と、彼女は静かに言葉を吐き出す。膝のあたりで握った手に力を込められる。彼女の言葉の奥にある深い悲哀を聞き取った気がして……私は彼女の顔を見る。彼女が何を思って彼に向き合っていたのか、それは想像することしかできない。それでもここにいる彼女の目には深く冷たい後悔が明確に映っていた。
「君は彼のことをどう思っていたの? 普通の人間だと思った?」
私が問いかけると、彼女は少し考え込むように視線を落とす。
「……むずかしい。普通の男の子だって思うこともあった。でも初めに言ったとおり、彼の性質は普通じゃなかったし……きっとそれは彼自身も、……彼自身がおそらく一番、わかっていたんだと思う。それでも。だから、なのかな。私はそう思いたくないなって」
彼女はそう言うと顔を上げ、小さく切り取られた明るい空を見遣る。眩しさに目を細めるその横顔は、窓の外よりもずっと遠くを見ているように見えた。
「いいお天気、ですね。昨日までが雨だったから……気持ちいい、でいいのかな。明るいうちにこうして誰かと話すのも、久しぶりかもしれません。夜に彼と会って、眠って……また夜を待つだけの、そんな生活だったから」
「……そう。彼は夜にしか出歩かなかったの?」
私が尋ねると、彼女は視線をこちらに戻す。その瞳は変わらず昏い影が浮かんでいたけれど、先ほどよりもどこか穏やかな色があった。
「そうだと思います。この見た目じゃ人前になんか出られないって、そう言ってたから。だから散歩も自殺も夜にしてたみたい。最近は夕暮れが早くなったって喜んでたのも、そのせいかな」
「そうだね。暗くなるのも随分早くなった」
「昼間の話も、たまにしてました。同居人のひとと暮らす部屋の窓から見えたもののこと。その日の天気のこととか、犬の散歩をする人のこと、近所にいる猫のこと、あとは……今日は早く起きたとか、りんごを食べたとか、ごはんを作ったとか。それと、自殺の準備や後片付けのことも」
後片付け。彼女の話では、血や体の残骸が羽根に変わるのだったか。
考える私をよそに、彼女は小さく笑ったようだった。それほど昔のことでもないはずのことを遥か遠くに見て、過去になってしまった『彼』を思い出して……昏い目をする。私は彼女の表情の変化を見逃さないように見つめる。
「私じゃなくて、彼がここにいたら……何か変わったのかな。どうして私はこんなところまで来てしまったんでしょう。どうして、私だけが」
嘆くような響きを帯びた言葉が、小さな部屋に浮かんでは虚しく落ちてゆく。
「私はどうしたら良かったのかな。私は、彼の役に立ちたかった。できるのなら殺してあげたかった。最初に出会ったあの夜から、ずっと。でも……それは私の怠惰だったんでしょうか」
「怠惰?」
「彼の言う通り、私は『私たち』の役割を果たさなきゃいけないからそう思ったに過ぎなかったんでしょうか。ただ自分が楽になりたかっただけで……、彼の役に立ちたかったなんて、ただの建前だったみたいに思えてくるんです」
彼女はこちらを見ない。確かにそこにいるはずなのに、机を挟んだだけで隔てられたその距離は絶望的なまでに遠いように感じられた。彼女はここでただ俯いて話をしている。私は彼女にかける言葉を持ち合わせていない。
「『私たち』の中には、役割なんて忘れて普通に生きていくものもいた、みたいです。でも私は……そういうふうにはなれなかった。だから目が覚めてからもずうっと無為に生きてきた。自分の目的や役割を知りながら、何もすることができなかったんです。世界を滅ぼすなんて……そんなこと、私には少しもできる気がしなくて、」
彼女の声にはどんな感情の色もなかった。そこには悲しみすらもなく、ただ諦念だけがある。私は彼女が話を続けるのを黙って聞く。
「……彼に尽くすことが、爆弾である私の生きる意味みたいに思えた。楽になりたかったのかな、心のどこかで。」
彼女は一度言葉を切ると、私の方を少し窺うような素振りを見せた。私が何も言わずに視線を合わせると、彼女はもう一度口を開く。
「それが彼の言う通り私の怠惰だったとしても……それでも、彼の役に立ちたいって気持ちはほんとうだって思いたかった。そうする他には希望も目的も……なにも見出せなかったから。初めて誰かのために自分を消費しようと思えた。それが私には幸せだった」
彼女は小さく息をついて、「でも、」と続ける。
「彼の抱えているものは、飲み込むのがあまりにも難しくて……それを何でもないように話す彼を、私は見てることしかできなかった。何を言ってあげたらいいのか、全然分からなかったんです。私は人間の友達になんて……なれなかった」
「彼はもともと普通の人間だったの?」
「……そうみたいです。もともとは普通の人間で、『呪い』のせいでそうなってしまったんだって。だから本当は明るいうちに外に出たかったと思う。もっと……やりたいことがあったんじゃないかな。突然あんなものを背負わされて、死ぬこともできなくて。それが彼をどんな気持ちにさせていたか……」
彼女はもう一度顔を上げて窓のほうを見る。その眩しさにわずかに目を細め、しばらく口を閉じた。
私は会ったこともない『彼』のことを考える。彼がなぜそんな性質を得たのかは分からないけれど、彼女の言う通りならそれは彼自身の意思とは無関係に背負わされたものだったのだろう。彼を蝕むその呪縛が、彼を取り巻く何もかもを大きく歪めてしまった。そしておそらく、彼自身もそれに気が付いていた。自分が普通の人間ではないことを受け入れざるを得なかったのだろう。
いま目の前で懺悔するように陰鬱に浸る彼女に、何も非などない。彼と出会ったのが誰であったとしても、きっと同じ隔絶を抱えることになっただろう。
窓の方を見つめたままの彼女は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「いつも、何でもないことを楽しそうに……とても楽しそうに、話をしてくれた。私も丁寧に生きなきゃいけないって、そう思うくらいに。でも、あれはきっと……そうする他になかったんだと思います」
彼女はこちらに視線を戻す。何の色も写さない深い色の瞳がこちらを捉える。
「二回目は、」
「二回目?」
私が繰り返す。彼女はこちらに視線を逸らし、目を伏せたままで暗く笑った。
「……彼と二回目に会った時。その時は晴れてました。相変わらず寒くて、星がたくさん見えたのをよく覚えてます。その時の彼は、散歩じゃなくて……自殺をしていました」