彼の実家から受け取ってきたものを抱えて、再び部屋に入った。
項垂れていたみなもは顔を上げてこちらを見るなり、強張った顔をする。
それに気が付かないふりをして、私はそれを彼女の目の前のテーブルにそっと置いた。
「…彼の、」
みなもは警戒するような、怯えともとれるような顔をして呟く。
私は椅子に座りながら言葉を返す。
「彼の遺骨です。彼の実家から受け取ってきました」
みなもはその美しい顔をひそやかに歪め、深く頭を垂れた。
それから、聞き取るのがやっとの声で「ありがとうございます」と言った。
しばらく肩を落として彼女は沈黙していた。
みなもは初めて会った時も、そうして項垂れてぽつぽつと話をしていた。
彼女が伝えたのは、自分が人を殺したこと、それから彼の家の住所。
そこで彼が死んでる、と、みなもは告げた。一緒に行くかと尋ねると、彼女は首を振った。
それから私は彼女の言うことの真偽をはかるために彼の自宅へと向かった。
凄惨な現場だった。壁にも床にも血が飛び散っていて、テーブルには果物ナイフと変色しきったりんごが置いてあった。背の高い青年が、リビングであろう大きな部屋の真ん中に仰向けで倒れていた。
「こんな風になってしまうんですね」
私が思案していると、ようやくみなもは口を開く。平坦な声だった。
彼女の顔を見ると、視線が交差する。困ったような顔をしていた。
「中を見てもいいですか」
「ええ」
ぎこちない手つきで彼女はそっと箱を開き、恐る恐るそれを覗き込んだ。
しかしすぐにゆっくりと目を閉じると、箱を元に戻す。浅く息を吸って目を開ける。
無理して平静を繕っているように見えた。
「先生、彼は…彼は、救われたんでしょうか。こうしてきれいな箱に入れられて、あるべきように葬られ、この先もずっと弔われること。それは彼にとっても救いになるんでしょうか。彼はよく言っていました。死後の世界がないといいなって。でも人間の魂は死なないのでしょう。じゃあ、人間に不滅の魂があるというのなら。肉体が死ぬと魂は天に上るのなら…これは、何なんでしょう」
平坦なままを装っていたが、彼女の声音は揺れる。
私は答えない。
「私には、これは…、彼の、いえ、…」
みなもは頭を垂れたままで首を振り、言葉を選ぶ。
焦れたように眉根を寄せ、握られた手に力がこもる。
それから、彼女は諦めたように首を振った。
「…ごめんなさい。うまく話せない。…別の話をしてもいいですか」
それから、そっと机の上の箱を指さして言う。視線は床に向いたままだった。
「彼の、それ…遺骨は、一度しまっていてほしいです」
「わかりました」
私は部屋の隅にある棚、背中に視線を感じながら、彼女からは見えない位置に彼の遺骨を移動させた。それから私は席につく。みなもは心なしか落ち着いたように見えた。
「あなたは彼を望んで殺してわけではなかったんですか?」
「いえ。私が望みました。間違いなく私の意志で、そうしようと思って彼を殺しました」
怨恨か何か、負の感情のために彼を殺したようにはとても見えず、私は問いかける。
みなもの答えは明瞭だった。彼女は言葉を続ける。
「先生は、彼の家で彼の死体を見たんですよね」
「ええ」
「どんなふう、でしたか」
おそらく部屋の様子は知っているのだろうに。
まっすぐに私を見る目には、何かを恐れるような色が滲む。
身体が強張るような感覚を覚えた。私は言葉を選んで口を開く。
「あまり見たくないというか、凄惨な現場だった…と思う。私があまり死人を見たことがないのもあるかもしれない。たくさんの血を見ると、やはり委縮してしまうね」
「…そうですか」
「血が壁にも床にも広がっていて、部屋の真ん中にあなたの言う“彼”と思わしき青年が倒れてた。首を真一文字に切り裂かれていたけど、彼に抵抗した様子はないように見えました。それは相手があなただったからなのでしょうか」
私の言葉に、彼女は冷えた笑みを見せた。
「顔見知りによる犯行。だからですか」
私への非難というよりは、自らを嘲るように。
やはり言葉が良くなかった。
「そういうわけでは。すみません」
「いえ…事実なので。…他には、なにかありますか」
「テーブルの上に、切ったりんごと果物ナイフがありました。あれで彼を?」
「…そうです」
「あのりんごも、あなたが?」
「いえ…あの日は彼がりんごを剥きました。彼、あまり料理はしないけれどりんごを剥くのは得意で。少し前からそうしているのだと言っていました。手癖みたいなものだって」
みなもはまた、遠くを見るように目を細める。
「夕方になるとりんごを剥いて、お皿に並べて、変色しないように処理をして…それでテーブルの上に置いておくんです。私がそれを食べるときもあったし、そうでないときは彼が自分で食べていました」
「私が見たときは、確か変色しきっていたと思いますが」
「…さあ、忘れちゃったんじゃないですか。それに、さすがに1日以上たてば、そうなると思います」
みなもは目を逸らして答えた。
何か含みのある答えだったが、私は質問を続ける。
「りんごを剥いてからすぐに食べないのは、何か理由があったんですか?」
「自分が食べるため、ではなかったからだと思います」
私たちが調べる限りでは彼に同居人がいたという情報はなかった。
彼女の前にも出入りしていた人間がいたということなのだろうか?
「でも彼は一人暮らしで…あなたが来る前からということは、もとはあなたのためでもなかったのでしょう」
「…そう。私のためじゃない」
また良くない言い方をしてしまったのは、みなもの反応を見るに明らかだった。
「だけど自分以外の誰かのために彼はそうした。お皿の上が空になっていることをきっと望んでいた。それが私のためじゃなくても、私はりんごを食べました。…それが私が彼にできることのひとつだった。彼の家に行って眠ったときは、彼は何度かそうしてくれた。…彼の望み。初めて会った時から、私はそれがわかりました」
みなもは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
椅子の上で三角に足を折り、蹲るように膝を抱える。
「私が人間になってすぐの頃。肉体も魂もうまく扱えず、幽霊みたいにさまよっていた頃。私は普通の大学生になろうとしていました。多くの人間がそうであるような経験を“みなも”の身体の中に押し込むために。私はいろいろなものを見ました。映画や小説、人間と話すことも。”ふつうの人間”を獲得するのは、とても難しかった。その時は他の誰かがたどってきた生活をなぞって、その人がどう望んでいたかって、そんなことばかり考えていました。あの人だったらどうしただろうって。私の意志をそこに反映させるのはとても難しかった」
でも、と、彼女は足を再び床に下ろして座りなおす。
私のことを見ると、取り繕うように笑って見せた。
完璧で、かつ無機質な、人形のような微笑みだった。
「そんなときに、彼のことを知りました。彼とは、高台の公園…展望台がある公園で出会いました。私の家からもそんなに遠くはないからよく行っていて…、その日は展望台の上にあるベンチに座っている人がいた。頭を抱えたような格好をしたまま、動かなかった。私はそれを見て、一度階段を引き返したんです。悪いかなと思って。でも、階段を下りて公園を一周歩いて戻ってきても…彼はまだそこにいました。だから、具合が悪いのかなと思って、声をかけたんです。大丈夫ですか、って」
彼女が話しているのはいつのことなのだろうか。
彼女の口調は、まるで昨日のことのように迷いない。
「彼は顔を上げました。具合は大丈夫です、と答えてから、友人の真似をしているんだ、自殺の真似事なんだって。死人みたいな真っ白な顔でした。多分正気じゃなかったんだと思います。そうでないと初対面の人間にそんなこと言わないでしょう。私は、死にたいんですか、どうして?と聞きました。そうしたら、償いの為に。と」
「自殺をした友人…それは、」
「いわないでください、」
思い当たった彼の友人の名前を口にしようとしたところで、彼女に遮られた。
ごめんなさい、と言いながら、彼女はまた視線を落としてしまう。
彼の友人の中の一人から聞いた話によると、確かに自殺未遂をした友人が彼にいたようなことは聞いていた。最も仲がよかったはずの彼の友人のこと。その人はいくら探しても私たちには見つからなかったのだけど。ともかく、彼の友人の話はしないほうがよいのかもしれない。
「償いというのは、彼が人を殺したことと関係がありますか?」
「…そう、そうですね。彼はきっと、私みたいに、そうしようと思って殺したんじゃないと思うんです。気の迷いとかそういうもの」
少し歯切れ悪く、彼女はそう答える。
「私は彼に、死んだら満足するんですかって聞きました。『わからない。多分僕にはできないと思う。でも僕にはそうする以外の方法を知らない』と、彼は答えました。よくわからなかった。でも、だから、彼に興味を持ちました。はじめは私がふつうの人間になるための手段の一つだったんです。彼の話を聞こうと思った。この不幸なひとの話すら、私の経験にしてしまおうと。週末はここにきているのだと言うから、じゃあ、会えたときはお話しましょうって。…結局それから、ほとんど毎週会っていたんですけど」
みなもは懐かしげに目を細めた。
「彼はなんと?」
「いいよ、と答えました。このままだと死んでしまいそうだから、お話しましょうって。そう提案したら、いいよ、って。そのことを後から彼は『ずいぶん親切で世話焼きな人なんだと思った』と言っていたけれど…親切なんかじゃなかった。私には人間になるための過程の一つでした。完全に、自分だけのためにそうしたんです。そのはずだった。でも嬉しかった。やっと自分の意志で人間と関われた気がした。私には、」
迷ったように言葉を切る。
一度息をついてから、みなもはまた口を開く。
「私にはそれがなんなのか分からなかった。海にいた頃は他人と言葉を交わすことなんてなくて、こんな気持ちになることはなかったから。たまに落ちてきた人間の記憶を辿ったり、水面に浮かび上がって人間のことを見たりしていただけ。…なんていえばいいのか、分からない」
「あなたのような人魚は、他にはいなかったんですか」
「いたのかもしれない。…私は肉体も魂も持たない存在だったと言ったでしょう?“私たち人魚”と言ってはいるけれど…私は人魚よりももっと不完全で、出来損ないだった。でも…そんな存在を捨てて人間になった私に“もったいない”って言ってくれたんです」
彼女の暗い瞳には、わずかにうれしさのようなものが滲んだ。
悲しみにもよく似たひそやかな感情だった。
「自分だったら泡になって消えるほうがいいなって。そんなことを言われたとたんに、あれだけ身を焼くような思いをして人間になったのに、それが恥ずかしいように思えて。同時に、だんだんと人間が尊いものだという理由がわかりました。永遠の魂を持っているというのはこういうことなのだということを理解しました。それと同時に、完璧な人間になることよりも、この不幸な人に何かしてあげたいと思うようになりました」
「自分が経験を得るという目的のほかに、彼に会う理由ができた?」
「…そうです。人間と話すのは得意ではないんです。言葉はあまりには不自由で、言葉を使って話すということは、私の中にある見えないものを型に流し込んで見えるようにしているだけにすぎません。その中身が同じかどうかを確認するすべもなく、それでも同じものを共有していると信じてわかり合っているふりをするしかありません。私はそれがとてももどかしくて。私が感じた素晴らしい感情が、言葉にしたとたんにひどく陳腐になってしまう気がして」
本当は、と、彼女は再び私を見た。
射貫くような視線に縫い付けられたように、私は彼女と目を合わせたまま動けなくなる。
「本当は。こんな話、したくないんです」
冗談めかして彼女はそう言った。
彼女が肩をすくめたとき、ようやく硬直していた体の緊張が解ける。
どうにも彼女の視線が苦手だ、と、その時初めて思った。
「もう何度会ったか分からなくなった頃。…いつもそうするみたいに、高台の公園から歩いて、港の方に行きました。私はその時から一人で海に行くのは避けていたから、海を見たのはその時がひさしぶりでした。海を避けているのはその時には彼ももう知っていたから、大丈夫?と聞かれました。一人じゃなければ多分平気、と答えました。その時はもう遅い時間で…港までとりとめもない世間話をしながら歩いて、でも、だめだったんです。海を見るとどうしても怖くて、それから一人になるのが嫌だと思った。彼もそれを分かっていたんだと思います。私、目に見えて動けなくなっていったから。家に来る?って、彼は言いました。…だから、彼の家に行きました」
みなもは自分のことを抱きしめるように腕を回す。
その白く細い指に力は無い。
「彼の家についたとき、もう日付は変わってた。すごく眠かった。うとうとしていたら、彼が眠っていいよって言いました。彼の部屋じゃないほうのベッドを使うのは相変わらず気が引けたから、床で寝ていいか聞きました。変かな、って聞いたら、変だけど、いいよ、って。彼は笑ってた」
その指が腕を滑るように落ち、力なく膝の上に戻る。
「夜中に目が覚めました。彼は眠ってた。ベッドに行けばいいのに、すぐ近くの床で。タオルケットが私の身体にかかっていた。彼は背が高いのに、何かから身を守るように身を小さくして眠っていました。私は彼にそっとタオルケットをかけてあげました。そうしたら、小さく、ありがとう、って。それから彼はまた眠ってしまった。私はキッチンまで行って、りんごを剥きました。彼の真似事でした。彼のことを起こしてしまうと悪いから、ほんとうにわずかな光だけで。それをテーブルに置いてから、朝まで眠りました。…起きるとりんごはなくなっていて、先に起きていた彼が少し離れたところでパソコンを見ていました。“りんご、ありがとう”と言って、困ったみたいなへんな笑い方で、“同居人の気持ちが、少しだけ分かった”って言いました…だから」
だから、と、みなもは顔をゆがめて繰り返す。
「幸せなものだけをあげたいと思った。…同居人の代わりになろうだなんて、…なれるだなんて。思っていなかったけど」
「彼の同居人、というのは…。私たちが持っている資料には、彼が誰かと住んでいるような話はありませんでした。…何か、知っていますか?」
「…彼から聞いた話だけなら」
みなもの声のトーンが明らかに落ちる。
やはりこれに関連したことは話したくないのだろうか。
「彼が殺したのは、彼の同居人だったのだと言っていました。ただ、きっかけが彼だったというだけで、あとは彼の同居人が自殺を繰り返していただけ。彼が言う“不思議なこと”の一つ。彼の同居人は何度死んでもよみがえってしまうのだそうです。同居といっても仲が良かったわけではなくて、わけあって同じ家の中で一人暮らしをしていただけ、と彼は言っていました。…私はそんなことないと思っていますけど。…彼が教えてくれたのは、死ぬこともできずに自殺を繰り返す人のこと。自分が同居人の自殺の理由であること。ある日を境に、同居人が帰ってこなくなったこと…その少し前に、土だけが入った植木鉢を持って帰ってきたこと」
「植木鉢、というのは…彼の部屋にあったもの?」
「多分そうです。…私が言った頃には二つ、三つあったから、もしかしたら彼が増やしたのかも。とにかく、彼は同居人に、自分がいないときは水をちゃんとやるように、と頼まれたのだそうです。そうしていたら土から芽が出て、やがて白い花が咲いた。それから彼は、ずっと同じ花を育ててました。彼の同居人の意志をなぞるように」
穏やかな声に、それ以外のものがわずかに混じる。懐かしさと悲しさ、様々な感情を少しずつ混ぜ込んだような複雑な感情が彼女の暗い顔に見てとれた。
「あぁ、この人も私と同じなんだと思いました。私と同居人はよく似ていると、彼は言いました。だから違和感がないのかもしれないって。だから…だから、私がここにいるのはよくないことなんだってわかってた。だって同居人が彼の後ろめたさの主たる原因であるなら、それに似てる私は彼を苦しめることしかできない…」
私は黙ったまま、彼女の話を聞く。
わずかに語気を乱したみなもは、私と目を合わせると少しだけ落ち着いたようだった。
「…それから、会うたびに考えるようになりました。何週間か考えて過ごして、でも答えが出なかったから、彼に聞きました。私がいないほうがいいかって。…彼にそんなこと聞いてもなんていうかはわかってた、それが彼を困らせるのも知っていました。私も、そんなことは言いたくなかった。彼が困るのは知っていた。彼の方が悲しそうな顔をするから。…でもきっと彼は、私が何も言わないでいなくなったら。空じゃないお皿を見たら、また暗い顔をするだろうから。だから彼に、そうだよって言ってほしかった。そうしたら私は、安心して彼から手を離すことができるから」
みなもはまた首を垂れ、嘆くような色を帯びてきた声で続ける。
「…でも、彼は。彼は、大丈夫だよ、ここにいて、とだけ答えました」
平静を取り繕うことさえ忘れたそれは、痛切にも感じられた。
「その時初めて、自分が人間になったような気がしました。私はずっと人間の殻を被った化け物のままだった…魂と肉体を手に入れただけでは永遠の魂を得ることはできなくて、限りない命をうけるには、他の力に頼るほかにない。…必要とされて、ここにいてもいいよって。言葉でいうのはとても簡単です。何かをしてもらったり言ってもらったりしたときに、それが本心か嘘かなんて他人である私には分かりはしません。でも、彼がそう言ってくれたから、私は私が見えるようになった」
「…彼にそのことは伝えた?」
「いえ。……伝えたとしても、彼には届きません。彼は理由を探すためだけに生きていた。身を焼くような劣等に苛まれながら生きていかなくてもいい理由。生きるために生きていたんじゃない。…私たちは同じ魂のもとに生きていて、それでも、分かり合えることは絶対にないんだって…知っていた。知っていたんです」
みなもは、一度テーブルの上の水を飲んだ。
ゆっくりと呼吸をしながら、死人のように真っ白な顔で彼女は沈黙する。
その目は何も映っていないようにも、ずっと遠くの何かを見ているようにも見える。
今日は終わりにしようか、と、口を開きかけた矢先、彼女は顔を上げて私を見た。
「ある夜、でした」
熱が冷めたような昏い瞳の奥に…何か諦めじみたようなものを感じた。
「すこしだけ涼しい日だった。いつもみたいに散歩したあと、彼の家に行って、二人で床で眠って。おそらく深夜、何時だかは分からないけど、…私は目を覚ましました。気配を感じた気がした。彼が立っていました。…近くのテーブルで、彼がりんごを剥いてた。見られちゃったって笑ってた。幸せだと思った」
意識の底に何かを強引に押し込めたような…それでも、みなもの声は端々が震えていた。
これ以上は話したくないというような苦渋に満ちた顔をしながらも、彼女は吐き出すように言葉を紡ぐ。
「起き上がって彼のほうに行きました。ふらふらしてた。まだ夢を見てるみたいだった。でもはっきりと覚えてる。全部覚えてます。彼は私が近づくとお皿の上にナイフを置いて、そっと私に顔を寄せた。掠めるように唇が重なった。…私は、その瞬間に、全部を見ました。」
「全部?」
「…見えたんです。死ぬときに、生きていたときのことすべてを早送りで見るみたいな感じ、まったく逆のことなんですけど…未来のこと。その全部。私たちがお互いを罵りあうような夜がいつか来ること。殺したいくらいに憎み合う未来のこと。…あまりにも恐ろしくて…私は動けなくなってしまいました。…硬い音がしました。私はそれを見ました。彼も少しだけそれを見た。ナイフが、テーブルに落ちた音だった。…私は、それを手に取っていました。」
ようやく顔を上げたみなもは、笑っていた。
泣きそうで、強張った笑みだった。
みなもは首を垂れて沈黙する。
何度か口を開きかけ、震えるように再び口を結ぶ。
私は彼女の言葉を待つ。呼吸の音すら痛いくらいの静寂。
「…いつのまにか、床も壁も血まみれで。倒れた彼のうえに、私も倒れ込んでいました。彼の腕は私の背中に回されていた。あたたかかった。私も彼を抱きしめた。…満たされた感じがした。…どれくらいの時間がたったのか分かりません。10分だったかもしれないし、1時間かもしれない。もっと長かったかもしれないし、短かったかもしれない。…気がつくと、彼の腕は床に落ちてた。もしかすると…最初から、そうだったのかもしれない。まだ夢の中にいるみたいに、頭の奥のほうがぼうっとしていた。私はすぐに着替えて、外に出た。…それからのことは、もうお話しました」
ゆっくりと口を開いたみなもは、そういうと一度だけ鼻を鳴らした。
弱弱しく、私に目を向ける。私は黙ったままだった。
彼女にかけるべき言葉を探す。
「あなたはその日、どうして一人で港に行ったんですか」
「……あの時間なら、人はいないかなって。…実際はいたんですけど」
「その時も、海は怖いと思いましたか?」
「怖かった、です。でも、それよりも、」
声の震えをごまかすように、彼女はまた視線を下げる。
「朝になって、彼がいなくなったあとも、みんなあまりにもふつうで。地下鉄はいつもみたいに人がいっぱいいて、大学の講義は当たり前に進んで、彼の家のそばにいる人も、誰も…彼が消えたことに、気づいてなんかいなかった。彼がしてくれたことも、私がしたことも、全部全部…全部嘘みたいに思えました。それがあまりにも怖かった…彼以外のものが普通に動いているのに、彼だけがそうじゃないなんておかしいじゃないですか。…確信が持てなかったんです。私は確かめなくてはならなかった…。だから、だから逃げられなかった。でも、自分で見に行って、もし『そう』じゃなかったらどうしようって。怖かった。怖くなったんです。…だから敷石さんに、そして先生に、電話をしました」
「…何かを確かめるために?」
「……誰かに彼の死体を見て、判断してほしかったんです。それに私が、…誰も彼のことを知らないのに…私が逃げたら、腐っちゃうから」
先ほどの、彼の部屋の状況を尋ねた彼女は、それを期待していたのか。
「抵抗した様子はなかったって。…先生はそう言いました。私を解釈する前の先生の目でみた、それは事実でしょう。それならいいんです。私の目的は、たったそれだけで。……痛かったらどうしようって。ずっと思ってた。…彼もあの時、同じことを考えていたと思う。そう信じたかった。でも、…そう信じてもいいのかな。彼は痛がるんじゃなくて、抵抗するでもなくて、…私に腕を回してくれたから。…彼が、私が見たようなものを見ていなかったらいいな。それはあまりにも恐ろしかったから」
彼女は袖の先で目の端を抑える。そのまま堪えるように俯き、みなもは息を吸った。ゆっくりと言った。
「彼のことを覚えているのは、彼の意志に反するでしょうか…消えてしまいたいって信じてた彼のことを覚えているのは。…でも私は、このままずっと生きていけるんだと思います。肉体が滅びたとしても。死んだ肉体はただの肉で、あの骨はただの燃えかすで…、私、私たちは…魂を運ぶための肉の袋なのだとしても、です」
「彼が、…死後の世界があって…そこで報われていたらいいね。…少なくとも生きている私たちは、それを支えに生きていくことができるから」
そうですね、と、みなもは頷いた。
「弔いも償いも、全部生きている側のためにすることです。…私はそう感じました。きっとどんなに悲しんでその死を悼んでも、死んだ人にそれが届くことはない。…そうであったらいいなって、私たちが望んでいるだけ」
生きているものがすべてですから、と続ける。
みなもはそっと後ろ…彼の遺骨の入った箱の方を振り返った。
まだ躊躇うような素振りで、曖昧な表情をしていた。
「彼の遺骨は、…海に撒こうと思います。正式な手続きを踏んで。…そうしたら、『泡になった』ことにならないでしょうか?彼の望んだことを少しでも叶えたことにならないでしょうか…。彼は人間だから、彼の全てをなかったことにすることはできないけど。でも、私はそれで救われる。…きっとそれで、いいんです。それが終わったら、私は私の理由を探そうと思います。彼が探していた理由を」
私が何か言う前に、彼女は私に視線を合わせてから深く頭を下げた。
「先生。…ごめんなさい。もうこれ以上は話せない。」
頭を上げた彼女の頬に、ようやく一筋だけ雫が伝った。
彼女はそれきり沈黙する。
私は丁寧に言葉をかけて立ち上がると、彼の遺骨をみなものいる机の上に再び置いた。
「燃えかすだなんて、嘘ですね」
抱きしめるように彼女はそれを抱えて、小さく呟く。
ありがとうございました、と、彼女はまた深くを礼をする。
彼女との面談は、それが最後だった。