「私は罪に問われるでしょうか、先生。」
その人は穏やかな声で尋ねた。
「少なくとも私たちにはあなたを裁く力はない。これは取調べではないけれど、」
「個人的に興味があるからあなたの話が聞きたい。でしょう。もう何度も聞きました」
でも、と、その人は続ける。美しい微笑を保ったまま。
「私が言ったことをあなたたちに都合がいいように解釈して上に報告することだって、先生にはできるでしょう。だからどうして彼を殺したのかは、」
そこまで言って、彼女は言葉を止める。一瞬だけ目を伏せたが、私の視線に気が付くとすぐにこちらを見て再び笑った。困ったような、奇妙で美しい笑みだった。
「うまく話せないみたい。人間の言葉は難しいですね」
「…“みなも”さん。」
私は手元の記録に目を落とす。答えるように彼女がこちらを見るのがわかる。
「ここに来るような人たちの中で、あなたほどはっきりと“自分が何なのか”がはっきりしている人は、そうそういません。あなたが初めてかもしれない。あなたの言ったことに嘘がないというのは、あなたと会話している最中に調べてもらいました。でも…」
「先生が欲しいのは、私が彼を殺した理由?それとも、私が何なのか?」
澄んだ声が私を制する。私が口を開こうとすると、彼女は視線だけでそれを遮った。
「私、言葉を使うのが苦手です。自分が思っていること、感じたこと。ちっともうまく話せやしない。あまりにも不十分だと感じます。先生。私が言うことを解釈しないで、とお願いしても、あなたが人間である限りは不可能なことでしょう。」
「そうですね。解釈するのが私の仕事でもあるので」
「ええ。先生はそれでいいんです。人間ってとても不自由ですね。言葉をつかえない化け物のままのほうがよかったのかもしれない。私が海の底にいた頃は、こんな思いはしたことはありませんでした」
私の前に座った時から、この人は自らを“人間になった人魚”なのだと繰り返す。
“みなも”という大学生の姿はつい最近手に入れたもので、長い間海の底にいた化け物なのだと。
人間の魂と肉体を手に入れて陸に上がったのだと。
私の端末に送られてくる記録では、“みなも”の経歴は少し変わってはいるが、普通の人間のものだ。この近くで生まれ育った、ただの人間だ。
「あなたが“人魚”だった頃の話を聞いてもいいですか」
「…それは、…あんまりよくない。人魚であるのが嫌で人間になったんですから」
私がそうですか、と答えると、彼女は少しだけ考えて、ゆっくりと口を開いた。
「…じゃあ、私のこと。私がここに来るまでの話。先生に会うまでのこと。それならすぐにお話できそう」
「彼を殺してから、海…港の方に、行きました。一人で海に行くのは避けていたんです。思い出すから。人魚だったころのこと…暗くて深い海の底にいた頃。私がまだ実体のない化け物だった頃」
「実態がないというのは、どういうことですか?」
「そのままの意味です。肉体といえるような定型がなく、人間みたいな魂も持たない。意識の塊みたいなもの」
“人魚”だった頃のことは話したくないのか、彼女は床を見て小さな声で言った。
話を戻しましょう、と彼女は少しだけ声音を上げる。
「彼の家を出てから、港の方に行きました。公園の方はまだまばらに人が歩いていたから、海のすぐそばをフェンスに沿って歩きました。三十分とか、一時間。それくらい。何も考えたくなかったし、誰の言葉も聞きたくなかった。自分が誰かに、自分がしたことを話してしまいたくなかった。失われてしまう気がしたから」
「失われる?」
私が言葉を繰り返すと、みなもは少し眉根を寄せた。
言葉を探すように何度か口を開きかけるのを繰り返したが、すぐに息をつく。
「わからない。あの気持ちをどう表現したらいいのか。…初めての気持ちだったので。港に行ってから…そのまま歩いて自分の家に帰りました。港から一時間くらいかかったでしょうか。夢の中にいるような、今動かしているのが自分の身体ではないような感じがしていたから、そんなに長いとは感じなかった。それでも家についたらすぐに眠って、いつもどおりの時間に起きました。アラーム、毎日かけていたので。水を少しだけ飲みました。地下鉄に乗って大学に行って、知り合いにあいさつをして、講義を受けました。いつもどおりでした。それから、怖くなったんです」
「彼を殺したことが?」
「…いえ、そうじゃなくて。」
彼女は目を閉じて首を振り、言葉を続ける。
「午後の講義を休んで家に帰りました。彼に電話をしました。出ませんでした。あたりまえですけど。頭が痛くて、気持ち悪かった。どうしたらいいのか分からなかった。私は怖かったわけではなくて、ただ、分からなかった。確信が持てなかったから。たくさん迷って、それで、知り合いに電話をしたんです。家族や大学の知り合いで頼りになりそうな人がいなかったから、“みなも”のかつても仕事仲間の大人に…敷島奈落、という名前で先生はわかりますか?」
「ああ…それであなたは私の連絡先を知っていたんですね。確かに彼ならあなた、みなもさんと関係があっても不自然ではありませんから」
「はい。…でも彼は最低限しか話してくれませんでした。私、嫌われているので。君でもそんなふうになるんだね、って笑われました。でも先生のことを紹介してくれた。優しいですよね、あのひと。」
「優しいというのが適切な表現かはわからないけど…親切、ではあるかな」
知り合いの顔を思い出しながら答えると、みなもは楽しそうに小さく笑った。
「敷島さんには、逃げるか、逃げないならこの人…つまり、先生に連絡をしなさいと言われました。先生が何なのかも教えてくれなかったけれど。私は逃げようとは思わなかった。確かめてくれるならだれでもよかった。だから先生に電話をして言いました。人が死んでる。私が殺しましたって。私が電話したとき、先生は落ち着いていました。どこの誰かも分からない人からの電話にも親切に対応してくれました。よくあるんですか?こういうこと。」
「頻繁にはないけれど、そういう仕事なので、と言うしかありません。あなたは取り乱していたと言っていたけれど、私に電話したときはずいぶんと落ち着いていたようだった」
「取り乱していないとだめでしたか?…もう整理がついていたからです。それと、敷島さんに電話して安心したんだと思います。敷島さんにはすごく嫌われているけれど、私は敷島さんのことは信頼しているので。こんなに嫌われていなかったら、もっとお話をしたいんですけど」
彼が人にそんな態度をとる様子が想像できなかった。少なくとも私が知っている限りでは敷島は人好きで明るい青年だし、“みなも”も人に嫌われるような人間ではないように見える。
「逃げなかったのはどうしてですか?私を呼ばずに逃げ出すことだってできたはずだ」
彼女はまた言葉を探すように目を伏せてから、
「彼の死体を見てほしかったから。」と答えた。
「彼の死体は、適切に処理されましたか?」
私がその意味を量っていることに気が付いたのか、みなもはすぐに口を開いた。
「物みたいに言いますね」
「…不謹慎、でしょうか。」
「いえ」
困惑したような、泣きそうにも見えるような、そんな顔をした。
終始落ち着いている彼女が初めて見せた、子供のような表情だった。
「小規模ですが、彼の実家で葬儀を行ったそうです。彼の家族に連絡しましたが、実家とは疎遠だったようで。彼が大学に進学してからの数年はほぼ絶縁状態だったとも。交友関係が広い方ではなかったにせよ、親しい友人もそれなりにいたようです。彼が亡くなったことを伝えるとみんなとても驚き、悲しんでいました」
「…そうですか。知りませんでした」
無機質な返事だったが、嘘をついているというよりは興味がないような様子だった。
「そうだ、先ほど連絡がありました。あなたが言ったことを彼の家族に伝えました、その返事です。彼の望んだのならそうしてほしいということでした。あなたが誰なのか、何をしたのかは言いませんでした」
「…そうですか。ありがとうございます。先生は優しいですね。彼と彼の家族、そして私の尊厳すら守ってくれるんですね。こんなことをしたのに」
「みなもさん。あなたと彼に接点が見つけられていません。大学も違うし、学校や何かの組織で一緒だった形跡もない。今住んでいる場所が近いといえば近いですが、それだけでは不十分だ。そんなあなたが、友人ですら知らない彼の家をなぜ知っているのか…なぜ彼を殺したのか。」
「彼の家、」
彼女は不意に顔を上げた。
「彼の家。誰も知らなかったんですか?」
「私たちが聞いた限りでは誰も。それが何か?」
「いえ…なんでも。別に不自然ではないと思います。毎日会っているからといって、みんながみんなどこに住んでいるか知っているわけではない。私だって大学の友人の家なんか知りません。…私が知っているのも偶然です。私だけが彼と特別に親しかったとは思っていません」
私の言葉の言外の意味を断ち切るように、彼女は否定を口にする。
「ただ、彼の家には何回か行きました。部屋は余っているから自由に使っていいと。でも私はそうしなかった。もし私がそうしたら彼の目的は達成されたのだろうけど、それが彼の望むことでないということがすぐに分かったから」
「確かに、一人暮らしにしてはずいぶん広い部屋に住んでいました」
「…大きい部屋と、彼の寝室。物置にしている小さな部屋と、もう一つ。ベッドとたくさんの本がある部屋。自分の寝室は散らかっているからってあまり見せてくれなかったけれど、その部屋はいつもきれいだった。それと、その部屋で彼はお花を育てていた。植木鉢がいくつかあって、水をやっているのを見たことがあります。日当たりのいい部屋なら他にもあるのに、わざわざその部屋に植木鉢を置いたいました。でもそれは私を含む不特定多数の誰かのためにしているわけではありませんでした。それは彼と話すうちにわかりました」
憂いの滲む目がどこか遠い所に向けられる。
「彼は、生きていくのもやっとなくらいに後ろめたいことがあって、ずっとそれを引きずって生きていました。彼は何かの理由がほしかったのだと思います。私を家に上げたのも、理由を探すための一つの手段だったんでしょうね」
「理由、というのは」
「さあ。…彼の口から直接聞いたわけではありませんから。これは、私の予想」
無理に作ったような笑顔で彼女は答える。
細められた目元は、むしろ苦しげに見えた。
「彼が繰り返していたのは、自分は救われないだろうってことです。笑ってましたけど。救われないのがわかっているから、こんなふうに適当に生きていけるんだって。彼といると楽だった。私がしゃべらなくても許してくれたから。でも同時に、落ち着かないような感覚もありました、この人は私が人間の殻を被った化け物であることも、おそらく知っているんだろうなって」
「彼は、あなたが“人魚”だということを知っていたんですか?」
「言ったことはあります。信じていたかはわかりません」
みなもは顔を上げる。改まったような表情だった。
私の瞳の奥の方をのぞき込むように、色素の薄い瞳が私をとらえる。
「先生は、死後の世界を信じますか。救われたいと思いますか」
私はすぐに言葉を返さなかった。問いの答えについて明確に考えたことはない。
彼女の質問の意味するところと、それに適した回答を考えようとして…それをやめた。
それが最適解のような気がした。
「はっきりと考えたことはないけれど、あったらいいとは思う。死後に救われると考えて生きた方が、報われる気がしませんか」
「…そうですか。そうですよね」
安心したように柔らかい表情で、彼女は何度かうなずく。
「人間はそうして生きていくことができます。だから私は人間になったし、彼だってそうしてもいいはずだった。惨憺たる人生を送ってきた人間ですら死後には救われ、素晴らしい天上へ上るのだと…でも、人魚にはそれがありません」重い声で、みなもは続ける。
「人魚は死なない魂を持ちません。三百年の寿命のあとは泡になり、親しい人との間にお墓ひとつも残すことができません。人間には魂があり、肉体が死んでしまって土にかえったあともそれは死なず、天上のきらきらした世界へと導かれる。神様のお国へ」
「神様の国、か」
「…それは、私たち人魚の魂ではとても及ぶことのできないところです。人魚は死んで泡になったら生まれ変わることすらかないません。暗い海の底に漂う意識のかたまりだった頃の私には、それがとても怖かった。いつ消えてしまうかもわからない、明日なんてないかもしれない。それなのにどうやって今日を楽しく生きることができるでしょうか。明日には全部消えてなくなって、それを認識することすらかなわないのかもしれないのに」
みなもは一旦言葉を区切る。
顔に暗鬱な影を落とし、彼女はすがるような目で私を見た。
「だから私は人間になりました。愛される以外の方法で人間の肉体と魂を手に入れました。私はそれについては後悔したことはありません。生きるためにそうした。手段は選ばなかった。彼にもそれを話したことがありました。死後の世界を信じるのか。自分がどうして人間になったのか。…彼は、“もったいない”と言いました」
ほんの少し、彼女の声音がやわらかくなった気がした。
表情は変わらず暗く沈み、力なくではあるが、彼女は再び笑う。
「私がその話をしたのは、彼の家に初めて行った日でした。夕立があった日。いつもそうしていたように高台の公園で会って、話をしているうちに夕立にあって。…お互い深い意味なんて考えていなかったと思います。ただ近かったとか、彼に言われたとか、その程度の理由でした」
「その時から、彼とは仲が良かったんですか?」
「週末に公園でお話をする程度です。何の話をしていたかはもう忘れてしまったけれど、まだ話したりないなと思っていたときに雨が降ってきた。…彼の部屋はきれいでした。その時も彼の部屋でないほうの部屋はきれいで、その時からお花を育てていました。お互いのことをちゃんと話したのは、その時が初めてでした」
虚ろともとれる表情で、みなもは言葉を続ける。
「私が人魚だったって言っても、彼は変な顔はしなかった。そう、とだけ言われたから、信じていないのかって聞きました。そうじゃないよって。不思議なことは存在するんだってことを知っているから、そういうのがいても不自然には思わないんだって笑っていたけれど、私にはそれが笑顔だって認識することはできませんでした。私が黙っていると、彼も彼の秘密を教えてくれました」
「彼の秘密?」
「人を殺したことがあるって」
私が黙ると、彼女は私を真正面から見直した。
解釈しないで。という彼女の言葉を、私はどうしてか思い出していた。
「それが彼の後ろめたさ、ということ?」
「それだけではありません。でも、構成する要素のなかで一番大きいものでしょうね」
「そうですか…」
「先生の持っている資料には、そういう情報はない?」
こちらを量るような、含みのある口調だった。
話をしてくれてはいるが、彼女の根底には私、私たちへの不信があるように思われる。
「ありません、…もしそれが事実なのであれば、ずいぶんうまくやった…のでしょうね」
そうですね、と言いながら、彼女はもう別のことを考えているようだった。
その時、部屋に取り付けられている呼び鈴が鳴った。
私の端末にも情報が表示される。
殺された彼の家族に会いに行っていた同僚からの呼び出しだった。
「少しだけ席を外してもいいですか。休憩しましょう」
「わかりました」
彼女の返事を聞くと、私は部屋を後にした。
ドアを閉める直前に見たみなもはひどく物憂げで、泣きそうなようにも見えた。